佐藤雅美の「将軍たちの金庫番」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

「江戸の税と通貨」→「江戸の経済官僚」改題。本書ではかつて書いた歴史経済小説の中の誤りを正直に認めて訂正している。こうした姿勢は好感が持てる。

本書は江戸時代の経済通史である。

なぜ小説家が?という疑問があるが、じつはこの分野の専門家がほとんどいないのだという。とくに経済史の流れを俯瞰する研究は絶無のようだ。学者になりたければ、こうした分野を研究するのがよいと思う。人がやっていないことをやるのが学者の一つの姿である。

著者は「大君の通貨」「薩摩藩経済官僚」「幕末住友役員会」「主殿の税」といった歴史経済小説を書いている中で、江戸時代の経済、とりわけ通貨や税、財政がわかったのだという。

江戸時代の経済官僚たちは経験と勘を頼りに経済のかじ取りを取ってきている。失敗も多かった。吉宗の通貨縮小策などがそれである。

だが、思わぬことをしてのけている。いわば通貨の錬金とでもいうべきもので、「銀貨の金貨化」である。世界でもしてのけた国はない。この「銀貨の金貨化」へのプロセスが細かく書かれている。

金本位制のもとで金銀の交換比率を固定化(為替レートでいえば変動相場ではなく固定相場ということ)し、幕府がこの比率の保証をしたというものである。基本的には兌換紙幣の考え方であるが、これを幕府の保証のみに焦点を当てると、不換紙幣の考え方にもなる。

また、近年その概念が見直されているが、江戸時代は一般的に鎖国体制を取った。

だが、海外からの情報は様々な形でもたらされたが、海外の船が日本に来なければ情報もやってこない。

オランダが日本にやってきたのは日本に「銅」があったからだという。この点が非常に重要である。

そして、江戸時代の貨幣経済を見るには、金銀だけでなく銅の動きにも注目する必要がある。

以下順に見ていく。

徳川家康の時代、日本はゴールドラッシュを迎えた。このためかわからないが、三代将軍家光は、収入の枠内で支出を考えることをせず、金銀を惜しみなくつかった。桁外れの浪費家だった。だが、この頃には金銀の産出が急減している。

この家光の浪費は、経済観点からは大いにプラスに働いた。十七世紀後半に商品経済活動が活発化するのだが、その前段階でこの浪費があったからこそである。

それでも四代将軍家綱の時代には六百万両残っていた。だが、家綱が死んだ時、遺産は百万両を切っていた。

五代将軍綱吉は絢爛豪華な文化が花開いた元禄時代であるが、このころの幕府の金庫はからっぽになっており、財政難に七転八倒し始めることになる。

綱吉の時代、勘定吟味役(のちの勘定奉行)に荻原重秀がいる。

これが考え出したのが、ウルトラC級の財政資金の捻出方法であった。「貨幣の改鋳」である。

貨幣の改鋳は金銀貨の価値(品位)を落とすことである。つまり金銀の含有量を減らすことである。

本来の価値でいえば、旧貨幣と新貨幣の交換比率は3:2であるが、これを2:2にしたので、差額の1枚分が幕府の懐に入る。これが五百万両ほどになった。

この五百万両も天災等によりあらかた使ってしまう。だが、その御蔭で好景気に沸いた。

六代将軍家宣・七代将軍家継の代は新井白石が主導権を握った。白石は荻原重秀を目の敵にして、貨幣の価値を元に戻そうとする。この時に、貨幣論争が起きる。

荻原重秀の主張はこうだ。「通貨というものは政府の保証があれば、材質などどんなものでもいいのではないか」。不換紙幣の考えに近い。
筆者は「官府の印理論」と名づけている。

だが、白石は聞く耳を持たず、貨幣価値を元に戻した。しかし元に戻ることでデフレが起きる。

堀田正亮が老中になったころ、予算というものが組まれるようになる。総額十三万八千両である。

歳入は百七十万両程あったが、幕臣への俸給などの抑制できない支出があり、こうした硬直性の高い費目以外を集めると、十三万八千両ほどしかなかった。幕府の財政は硬直化していたのである。

ついで、筆者は田沼意次について、かつて書いた本「大君の通貨」の誤りを認めている。

辻善之助氏の書いた「田沼時代」に書かれている内容を鵜呑みにしてしまい、あれもこれも田沼がやったこととして、田沼意次を経済通だと思ってしまったのだ。

田沼意次の、すぐれた経済テクノクラートという評価や、貨幣経済をあおった重商主義者という評価の根拠はなにひとつない。

開国志向を持っていたというのも眉つばである。この当時どの国も日本にはやってこず、開国をせまる国もない。条件が揃わない中で、開国を志向する理由がない。

明和の一連の貨幣改革は川井久敬が行っている。この人物の行った貨幣改革こそが「銀貨を金貨に化けさせてしまう」というものだった。「南鐐二朱銀」である。

これまでの銀貨は重さが一定ではなく、量って使用する「秤量貨幣」だった。

川井は南鐐二朱銀に、金貨であるという「官府の印」を押したのだ。「以南鐐八片、換小判一両」。「定量貨幣」の創出である。

定量だから使い勝手がいい。徐々に使われるようになり、銀貨が金貨に化けた。

松平定信は、現在田沼が経済に明るいという評価を受けているために、相対的に評価を下げている。

経済の側面からいうと、その通りで、経済には明るくなかった。絵にかいたような貿易有害論者であり、政権を握るとすぐに貿易縮小策を打ち出す。また、贅沢が物価高の原因と思いこみ、奢侈禁止令を発する。

田沼時代の経常収支はトントンだったようだが、天災によって三百万両あったのが二百十万両に減っている。田沼失脚後、わずか二年数カ月で天災により百三十万両が消える。

松平定信が老中首座になって、天明八年。剰余金は八十万両に減っている。

定信は財政再建になんの糸口も見出せず、失脚する。続く寛政の遺老たちも「倹約」のスローガンのみで四半世紀を押し切った。

剰余金は六十五万両に減った。

十一代将軍家斉の時の老中が水野忠成である。

金を何とかしろと言われて、手をつけたのが貨幣の改鋳であった。改鋳には二通りある。品位を落とすものと、「官府の印理論」を応用したものである。水野はこの両方を行った。

結果として、貨幣の改鋳を行った年から四十年間で千七百九十六万九千五百両余、年で平均四十四万九千二百両の益金を得たという。

重要なのは、「官府の印理論」を応用した改鋳は世人に貨幣改鋳と悟られなかった。幕末の俊才・川路聖謨ですらそのことを知らなかった。
幕府の唯一の成功した改革・享保の改革など足元にも及ばない成果を上げたのだ。

安政六年(一八五九)。日本は米蘭露英仏五カ国と通商条約を結び三港を開港する。この時、小判の流出騒ぎが起きる。原因は金銀比価のちがいにあったと説明される。

筆者は、そうだったのだろうと思っていたが、実は天保一分銀という銀貨を持っていたことに原因があったという。

天保一分銀は「官府の印理論」が結実した通貨である。つまり、実質的に一分の価値を有さない銀だったのである。

これを日本の交渉者が知らなかったため、幕末の通貨は大混乱の状態に陥る。

だが、天保一分銀が実質的にその価値を有していないというのは長崎が把握していた。そしてそのことを江戸に伝えたが、江戸の交渉者は理解できなかったようである。

結果として誤った為替レートで条約が結ばれた。本来、メキシコドル4:一分銀4:小判1のはずが、メキシコドル4:一分銀12:小判3となってしまったのだ。

この誤りはすぐに日本側も気がついた。だが、相手がハリスだったのが不幸だった。

筆者はハリスを「史上これほどうす汚い外交官はいないといってもいいすぎではない外交官」と評している。

高潔な人格者で、唐人お吉の話などありうべからざる話という定説があるとすると看過できない。

このハリスは私利私欲のために、日本の通貨と経済を大混乱に陥れているのだから。

ハリスは老後の蓄えを残したい一心でやってきた「たのしい、ゆかいな外交官」だったのである。筆者が皮肉を交えて描いているのは、まさに守銭奴ハリスの姿である。

そもそも幕府は開幕当初にミスを犯している。全国民から税を徴収する権利を確保しなかったのだ。

その結果、幕府に限らず諸大名家も金に困る状態が続き、統治する側の全員が財政に苦しみ、統治される側の商人が潤うという奇妙で不思議な社会構造が出来上がった。

幕府は商人に税をかけることを想定していなかった。だが、それでも例外的に課税した。三つに分けられる。運上金、冥加金、そして商品統制を認める代わりに納める種類の税である。

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本書について

佐藤雅美
将軍たちの金庫番
新潮文庫 約三二〇頁
解説書

目次

初刊本はしがき
第一章 徳川幕府の台所事情
第二章 経済官僚の知恵くらべ
第三章 田沼意次と松平定信の経済感覚
第四章 武士階級と貧窮
第五章 江戸の貿易事情
第六章 ハリスと相対した経済官僚
第七章 江戸の通貨事情

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