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永積昭の「東南アジアの歴史 新書東洋史7」を読んだ感想

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覚書/感想/コメント

本書は一九七七年に出版された。東南アジアの歴史に関する研究は、当時より進んでいると考えた方がいいので、本書は参考程度に読まれるのが良いと思う。

本書の大きな特徴だが、近現代に属する十八世紀以降の記述が過半を占めており、それまでの歴史は、その時間の長さのわりには短く書かれている印象である。

おそらく、わかっていない部分が多いため、そうなってしまったのだろうと思う。

この「わかっていなかった部分」というのが、現在では「わかった部分」に置き換わっている可能性があるので、私は新しい著作物を読んだ方がいいと考える。

また、近現代より前の時代に関しては、時系列的に書かれており、地域ごとにまとまって書かれていないので、話があちこちに飛んでいる印象があり、頭に入りにくい。

東南アジアの歴史は、もともと馴染みが薄いのに、あちこちに飛ばれると、どこの地域のいつの時代のことを書いているのかがわからなくなる。

さて、東南アジアという名前は、第二次世界大戦末期に連合軍が使い出した「サウスイースト・エイシア」を日本語に訳したものだといわれている。それまでは東南アジア全体をさす名称はなかったそうだ。

だが、逆にこの名称に縛られて、東南アジアを見ると誤解が生じやすい。なぜなら、この地域は地理的に隣同士でも、互いに色々の異質な要素を持っているからである。

これは、数千年にわたる民族の移動により、世界でも珍しいほど多様な少数民族が東南アジアに見いだされていることからもわかる。

東南アジアは隣り合う二大文化圏から深い影響を受けている。一つはインドであり、もう一つが中国である。

ヴェトナムは紀元前一一一年に漢により征服され、約一〇〇〇年間中国の支配におかれた。一方で、インドからの影響は政治的支配とは無縁であり、平和的に東南アジアの大部分に広まった。

北ヴェトナムのドンソンという場所から出土品がでたため、ドンソン文化と呼ばれる文化は広くインドネシアまで及んでいる。

紀元前二~一世紀の頃には、中国の史書の中に記述が見られるようになる。最も古くから中国との関わりを持つのはヴェトナムだった。

「漢書」地理志には、ヴェトナムからインド東南岸までの航路が記されているが、その途中で五つほどの国の名が登場するそうだ。

漢の武帝がヴェトナムに派兵し、以後約千年間中国の支配下に置かれることになる。

メコン河下流では、インドからの移民が定住し、バラモン階級の者が紀元前一世紀末ないし二世紀初めころに「扶南」を建てた。

建国説話は、外国からの移住者が高い文化を伝え、土地の有力者と婚姻関係を結んで王となるというもので、広く東南アジアに共通するものである。

最盛期は三世紀から六世紀中頃までで、海上交通に通じていた。東西交通の要の位置にあり、ローマの金貨なども見つかっている。

この扶南に続いたのは北東にあるヴェトナム中部のチャンパー国であった。

目を転じると、東南アジアの西端には撣国があり、マレー半島の根本には頓遜国、半島を少し南下すると狼牙脩国などがあった。

こうした国が、四世紀頃までの東南アジアにできたが、実態を伝える史料がない。

七世紀後半にインドに留学した義浄がスマトラ南部の海洋国家シュリーヴィジャヤの興隆を目撃し「南海寄帰内法伝」に記している。シュリーヴィジャヤは中国では室利仏逝と書かれる。遺物が少ない国である。

八世紀中頃にはジャワ島中央部にシャイレーンドラ朝が起きる。大いに大乗仏教を広めただけでなく、インドシナ半島東海岸の各地にも遠征軍を送った。シャイレーンドラの不思議は、壮大な宗教建築を遺さなかったことにある。

このシャイレーンドラにおされて、シュリーヴィジャヤの貿易活動は八世紀後半には衰えたが、シャイレーンドラから逃げてきた王子により再び繁栄を取り戻し、十世紀には全盛期に入る。反して、シャイレーンドラはマタラム朝に圧迫され衰退する。

マタラム王国は九二九年頃に東ジャワのクディリに移転してクディリ朝と称した。以後三〇〇年の間東部ジャワに君臨し、ダルマヴァンシャ王の時代に繁栄期を迎えた。

ジャヤヴァルマン二世が八〇二年に即位し、クメール帝国のアンコール朝が始まる。この王朝の繁栄を代表するのは、石造建築物である。

十二世紀前半のスールヤヴァルマン二世の時代にアンコール朝が絶頂となる。彼は旧アンコール・トムの南方にアンコール・ワットを建設した。

王の死後一時衰えるが、ジャヤヴァルマン七世により、十三世紀初頭、クメール帝国の領土は最大となる。

中国が唐末から五代の時代になると、九三九年にヴェトナムは独立する。だが、この国は長続きせず、これ以後七〇年間ほどの間に三つの王朝が興亡した。最初の長期政権は一〇一〇年の李朝である。

九世紀中頃、イラワディ河のパガンを中心に一〇四四年にビルマ人のパガン朝が建てられる。

十三世紀は東南アジアにとって大きな転換点となる。石造建築の時代の終焉であり、モンゴルの侵略であった。

この中で東南アジアに登場したのがタイ族である。アンコール朝の没落によって、一二三八年にスコータイ朝を建てた。

スコータイ朝の勢力は長くなく、一三五〇年にアユタヤ朝がとってかわる。アユタヤ朝は以後四〇〇年続く。

発展はボロモトライローカナート王(トライロク王)の時代に始まる。サクディナー制と呼ばれる階級制度をはじめたのでも知られる。

元寇を利用してヴィジャヤがマジャパイト王国を建てる。黄金期は一三五〇年に即位した四代目のラージャサナガラ王の時代だった。

東南アジアのイスラム化は十三世紀の頃に起きたようである。

スマトラの諸港は改宗していき、重要なのは一四〇〇年頃にできたマラッカ王国の建設である。ムザッファル・シャー以後、マラッカ王はシャーと呼ばれスルタンの称号を持った。本格的なイスラム化はこの王の時代に起きたようである。

この当時の貿易で西方の商人を惹きつけたのは香辛料であり、とくにチョウジとニクズクの二種だった。

マラッカは一五一一年にポルトガルにより陥落する。

ポルトガルと競っていたのがスペインだったが、次に現われたのがオランダとイギリスだった。

こうした時代に生まれたのがイスラム新興国のマタラムである。建国者はセナパティという謎の人物で、一六一四年に即位したスルタン・アグン以後オランダの史料に現れ始める国である。

十八世紀には王位紛争がおき、王家が二分され、土領侯になりおわる。変わってジャワのほぼ全土を支配したのはオランダだった。

ビルマではパガン朝の滅亡前後から混乱が長く続いた。一三六四年にアヴァ朝ができ、このアヴァ朝に一五二七年に内乱が起きる。この中でトゥングー朝が起きる。

このトゥングー朝も、一七五二年にモン族の反乱により首都が奪われ、このモン族を撃退してアラウンパヤー朝(コンバウン朝)ができる。

以後、東南アジアの近現代へと入っていく。

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本書について

東南アジアの歴史 新書東洋史7
永積昭
講談社現代新書 約二四五頁
解説書

目次

まえがき
序章 二つの太洋のはざまに
 1 東南アジアの自然と住民
 2 たえざる「外圧」の歴史
 3 内から発する活力
 4 東南アジアの一体性
第1章 石は語る
 1 青銅の鼓
 2 扶南の栄光
 3 シュリーヴィジャヤとシャイレーンドラ
 4 クディリ朝の盛衰
 5 クメール帝国
 6 独立国ヴェトナム
 7 ビルマの登場
 8 さまざまな元寇
第2章 東西あいふれて
 1 「国王が作った文字」
 2 征服の誓い
 3 マラッカの建国
 4 地球の裏側から
 5 マタラムとオランダ
 6 十字架の重み
 7 タイとビルマとの死闘
第3章 植民地化とその反応
 1 瓦礫の中から
 2 シンガポールへの道
 3 強制栽培制度
 4 至難な独立
 5 フィリピン独立運動とその挫折
 6 たかまる民族主義運動
第4章 銃火と旗
 1 「革命の新しい時代」
 2 草の根の動き
 3 救世主か侵略者か
 4 日本軍の足跡
 5 独立への苦闘 インドネシアとヴェトナム
終章 東南アジアと世界
 1 アジア・アフリカ会議
 2 マレーシア問題
 3 九・三〇事件
 4 インドシナ戦争の終末
 5 「古い希望と新しい絶望」
参考文献
年表
索引