観光的な祇園のたたずまいが残るエリアの先に建仁寺があります。
観光客で溢れるお茶屋街を歩いていくと、突き当たりに建仁寺の裏門にぶつかります。
「けんねんさん」の名で親しまれています。「けんねんじ」「けんねじ」とも言うそうです。
八坂神社を参拝して、祇園白川を見学したあとに、安井金毘羅神社を参拝する途中に立ち寄りました。
花見小路から来たので、裏門から境内に入りました。
本当は八坂通りにある勅使門を見て、方丈池、三門、法堂、方丈と南北に並ぶラインを体感し、東西の塔頭を体感するのがいいと思います。
建仁寺(けんにんじ)の歴史
日本に臨済宗を伝えた栄西が開いた禅寺です。
禅寺らしく静かでした。
ちょっと外を歩けば、観光客の人だかりですが、境内には人が押し寄せていません。
いっときでも喧騒から避けられるはありがたいです。
戦国時代好きであれば、毛利家の安国寺恵瓊の墓がある寺といえば心躍るでしょう。
墓のことを知らなかった自分は、後になってそれを知り、ガッツリ凹みました。
臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号は東山(とうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は源頼家、開山は栄西です。
豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺です。
京都五山
京都五山の第3位。
五山制度は臨済宗における制度で、鎌倉時代に始まり、鎌倉の寺院を中心に成立しました。
京都でも同様に取り入れられました。
京都五山は次の通り。
- 別格 南禅寺
- 第一位 天龍寺
- 第二位 相国寺
- 第三位 建仁寺
- 第四位 東福寺
- 第五位 万寿寺
文化財として、俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などが有名です。
山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名。
貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られます。
明治時代の廃仏毀釈により多くの塔頭が失われ、現在は14院が残るのみです。
廃仏毀釈により、全国の歴史的遺産がどれだけ失われたかわかりません。
壊滅的に失われた地域もあります。
また、約1400年かけて培われた日本の宗教観が根本的に変わることになり、その影響は今日に至っており影響度は極めて大きいです。
その功罪は今後の歴史学の中で語られていくことになるでしょうが、失われた歴史的遺産が戻ることはありません。
廃仏毀釈については安丸良夫「神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―」に詳しいです。
なお、日本最初の禅寺は博多の聖福寺です。
京都で一番古い禅寺
建仁2年(1202)に源頼家の帰依によって栄西が創建した禅寺。京都で一番古い禅寺です。
中国の百丈山を模した伽藍は3年後の元久2年(1205)に竣工しました。同時に官寺と認められます。
建仁寺は建仁2年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。
https://www.kenninji.jp/about/
創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。
その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、正嘉元年(1258年)東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなりました。
正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。
やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃します。
ようやく天正年間(1573-1592年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されます。
明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となります。
また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在にいたります
建仁寺の概要
項目 | 内容 |
---|---|
山号 | 千光山 |
院号 | – |
正式名 | 東山 建仁禅寺 |
開基 | 建仁2年(1202年) 源頼家、栄西(開山) |
宗派 | 臨済宗建仁寺派 |
本尊 | 釈迦如来 |
別称 | ― |
備考 | 寺格:大本山、京都五山三位 |
公式ページ
建仁寺の文化財
風神雷神図(国宝)
俵屋宗達筆。
有名な絵で、雷神と風神といえば、この絵でしょう。
原本は京都国立博物館に寄託されています。寺には複製の屏風および陶板が展示されています。
雲竜図(重要文化財)
山水図
琴棋書画図
栄西(えいさい/ようさい)とは
栄西は平安時代の後期の永治元年(1141年)に備中国(岡山県)に生まれ、13歳で比叡山に入り、翌年出家しました。
初め密教を学びましたが、仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2回、南宋に渡航しました。
2度目の渡宋で臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に禅を学びました。
帰国に際して、茶種を持ち帰り、栽培方法と効用を広め、日本での茶祖となります。
「喫茶養生記」が知られます。
建久2年(1191年)に虚庵から印可を得て帰国。
帰国後、禅を広めようとしましたが天台宗徒の反対にあったので、興禅護国論を著して天台側との融和を図ろうとしました。
京都では禅寺を開くことは難しかったようです。比叡山延暦寺の力が強かったからです。
そこで、栄西は九州の博多で聖福寺を建てます。これが、日本最初の禅寺となりました。
栄西は鎌倉に移ったのち、北条政子の援助で鎌倉時代の正治2年(1200年)に寿福寺を建てます。寿福寺は鎌倉五山の第三位。
建仁寺の大きさ
建仁2年(1202年)に鎌倉幕府2代将軍・源頼家の援助を得て建仁寺を建立します。
鎌倉幕府から施入されたと伝えられる寺域は「五条以北、鴨川以東」とされ広大でした。
3宗並立
創建当時の建仁寺は天台、真言、禅の3宗並立でした。
初めは真言院、止観院を置いた天台、真言、禅、さらには戒を兼修する寺だったのです。
当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったため、禅だけにはできなかったためです。
栄西の弟子には退耕行勇、了然明全など傑出した禅僧が出ましたが、いずれも天台、真言を兼修する禅でした。
禅寺になるのに半世紀以上
禅寺になるには半世紀以上待たねばなりませんでした。
当初は天台宗の別院として位置づけられましたが、正元元年(1259年)に宋僧の蘭渓道隆が11世住職として入寺すると禅寺としての性格が強くなります。
深草天皇の諱「久仁」の仁字を避け「建寧寺」と号するようになりました。
建武年間に五山となり、興国2年/暦応4年(1341年)に足利尊氏によって五山の第4位となり、元中3年/至徳3年(1386年)年に足利義満によって第3位となりました。
南北朝時代以後、義堂周信、竜山徳見、江西龍派など五山文学に名を連ねる学僧たちが並び立ちました。
五山文学の府として「建仁寺の学者面」といわれました。
火災
建仁寺は、たびたびの火災で幾度となく堂宇を失ってきました。
佐々木道誉が妙法院に火をかけた際には、その類焼で焼けています。
応仁の乱によって荒廃し、天文21年(1552年)兵乱により堂宇を焼失しました。
火災のため創建当時の建物は残っていません。
正嘉2年(1258年)の火災では円爾弁円が復興しました。
文禄年間(1592年~1596年)に安国寺恵瓊が安芸の安国寺の方丈を移建し、鎌倉の東福寺の茶堂を移して本堂としました。
建仁寺に限らず、京都の有名な寺社は応仁の乱など数々の戦火に見舞われ、創建当時の建物が残っているところは少ないです。
江戸時代には徳川幕府の五山派寺院に対する保護と統制を受け、諸堂の再建、修造が行われました。
天明8年(1788年)の禅宗済家五山建仁寺末寺帳によると、末寺の182寺を数えました。禅宗臨家五山建仁寺派下廃壊改派寺院牒には181寺を数えています。
現在の方丈は他寺から移したもので室町時代のものです。勅使門は鎌倉末ころの唐様四脚門です。
建仁寺の見どころ
本坊
方丈などを見るには本坊から入ります。入館料があります。
潮音庭
方丈
重要文化財。
室町時代の建物。
安国寺恵瓊が慶長4年(1599年)に広島の安国寺から建仁寺に移築しました。
当初は杮葺でしたが、1736年に瓦葺きになりました。幾度か変えられ、2013年に杮葺になりました。
各室の襖には海北友松の水墨障壁画がありました。海北友松は桃山時代を代表する画家です。
現在は京都国立博物館に寄託されています。寄託するさいに襖から掛軸に改装されました。
方丈の石庭(大雄苑)
白砂敷に砂紋が描かれています。
法堂
仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(はっとう)を兼ねています。法堂は講堂にあたります。
明和2年(1765年)の建立。創建800年を記念して平成14年(2002年)に双龍の絵が天井に描かれました。
三門(望闕楼)
「望闕楼」(ぼうけつろう)の別称があります。
浜名郡雄踏町(静岡県浜松市)の安寧寺から1923年に移築したものです。江戸時代末期の建築。
その他の施設
勅使門
重要文化財。寺の南側正面、八坂通りに面した四脚門。平教盛の館門(平重盛の館門とも)を応仁の乱後に移築したものと伝わります。勅使門は俗に「矢の根門」といわれ、平氏の六波羅邸の遺構とも伝わります。
東陽坊
千利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が好んだと伝えられる茶室。大正年間に現在地に移築されました。
浴室
1628年(寛永5年)三江紹益によって建立されました。湯気で身体を温める蒸し風呂形式の明智風呂。現在のものは平成に入って再建されたものです。
開山堂
境内の北東にあります。栄西の墓所。旧名を護国院、古くは興禅護国院と呼ばれていました。栄西の像を安置しており、堂の前の菩提樹は栄西が宋より帰国するとき持ち帰ったものといわれます。
明星殿(楽神廟、楽大明神)
吉備津神社の末社「楽の社」の神を、楽大明神として祀ります。虚空蔵菩薩を本地仏とします。縁日は11月13日。
京都ゑびす神社(もとの鎮守社)
塔頭
正伝永源院(しょうでんえいげんいん)
建仁寺の真北に位置する境外塔頭。正伝院と永源庵は別個の塔頭寺院でした。
正伝院(しょうでんいん)
鎌倉時代の創建、開基は建仁寺第十二世義翁紹仁。祇園にありました。大坂冬の陣ののち織田有楽斎が元和4年(1618年)に復興しました。
永源庵(えいげんあん)
南北朝時代の創建、開基は建仁寺第三十九世無涯仁浩。細川頼有がこの無涯仁浩を師としました。
永源庵は和泉上守護家細川氏8代の菩提寺となります。
細川頼有の系統から出た細川幽斎と細川三斎の父子を祖とする熊本藩主家細川氏の菩提寺の一つになります。
永源庵は明治初年には無住となっていたことから、廃仏毀釈ですぐに廃寺と決まりました。
ところが永源庵は建仁寺の真北に位置する境外塔頭だったため、建物そのものが直ちに破壊されませんでした。廃仏毀釈を生き残った正伝院が永源庵の跡地に移転しました。
正伝院は、細川侯爵家の菩提寺たる永源庵の名を絶やすには忍びないということで、寺名を旧両塔頭の名を合わせた正伝永源院と改めました。
常光院(じょうこういん)
温中宗純を開山とします。1604年(慶長9年)に豊臣秀吉の親族である木下家定が中興しました。木下家定の墓所がある。
霊洞院(れいとういん)
建仁寺26世の慈照高山(法燈派)を追請開山とする塔頭。弟子の海雲禅慧らが創建しました。現在は建仁寺の僧堂。僧堂とは専門道場のことです。
清住院(せいじゅういん)
蘭洲良芳の塔頭。蘭州は1378年(永和4年)に54世として建仁寺に住持しました。足利義満からあつい信頼を受けた五山文学僧です。
興雲庵(こううんあん)
陀枳尼尊天(だきにそんてん)が興雲庵の鎮守稲荷として祀られています。
禅居庵(ぜんきょあん)(京都市東山区)
開山は中国僧である大鑑禅師(清拙正澄 1274-1339)。境内の中には摩利支天堂があります。狛犬ではなく狛猪があります。開運や七難除けのご利益があります。
堆雲軒(たいうんけん)
1346年(正平1年)霊洞院の正中西堂禅師の建立による塔頭。
久昌院(きゅうしょういん)
建仁寺境内の西側に位置します。1608年(慶長13年)に奥平信昌が三江紹益を開基に迎えて創建した奥平家の菩提寺。
大統院(だいとういん)
建仁寺境内の南東の端に位置します。夢窓疎石の法嗣である、青山慈永(1302-1369)を開山として1352年に創建された寺院。
両足院(りょうそくいん)
もともとは知足院と言いました。寮舎であった也足軒と合併し両足院となりました。黒田長政にゆかりのある塔頭。鞍馬にあった毘沙門天像を兜の中に入れ、関ヶ原の戦いで活躍したと言われます。
西来院(せいらいいん)
開山は北条時頼の招聘で宋から来た蘭渓道隆(らんけい どうりゅう 1218-1278)。鎌倉の建長寺の開山となった名僧。日本で禅師号最初の禅僧。大覚禅師。
大中院(だいちゅういん)
建仁寺北門前の花見小路通の南端東側に位置している。大中院は東海竺源(1270-1344)が開基。
住所と地図
所在地: 〒605-0811 京都府京都市東山区小松町584