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小田原城の訪城記-歴史や見どころは?(神奈川県小田原市)後北条氏五代の居城

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小田原城は小学校の遠足以来です。

遠足に行った当時は、まだ象がおり、ちょっとした動物園が併設されていたように記憶しています。

久々に行ってみると、こんな感じだったかなぁ、と思いましたが、はるか昔のことですし、当時とは背丈がだいぶ違うので、見えた景色も違ったのかもしれません。

小田原駅にある巨大「小田原提灯」

小田原城は、戦国時代から江戸時代にかけての平山城で、後北条氏の本拠地として有名です。

江戸時代には小田原藩の藩庁がありました。

本丸などの石垣、堀・土塁の一部が残る城跡は神奈川県内の国指定史跡となっています。

日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つです。

宿泊旅行なら旅行サイトを利用するのが良いと思います。下記をご参考になさってください。
国指定史跡であることを紹介する案内板

なお、城内には二宮尊徳を祀る報徳二宮神社(ほうとくにのみやじんじゃ)があります。この日は報徳二宮神社側から城に入っていきました。

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小田原城の歴史

後北条家以前

建築者は、不明です。

平安時代末期の1180年頃に、源頼朝の挙兵を助けた土肥実平の嫡男・小早川遠平が早川荘の総預所になって築城したのが初めといわれています。

以後、鎌倉時代から南北朝期までは土肥、小早川の一族が支配しました。

土肥氏は、室町時代の応永23年(1416)の上杉禅秀の乱で禅秀に与したために土地を没収されます。

小田原城は、乱の平定に功のあった駿河を本拠としていた大森頼明に与えられることになりました。大森氏は扇谷上杉氏の重臣です。

大森氏時代の山城は、城の西部に位置する小峰山付近と推定されます。

小田原城に入ったのは大森頼明の子・大森頼春で、5代80年にわたり大森氏の時代が続きました。

後北条家時代

北条早雲像

室町時代の明応4年(1495)、伊豆を平定して韮山城(静岡県伊豆の国市)を本拠としていた伊勢新九郎盛時(通称:北条早雲)が、鹿狩りと称して小田原城背後の箱根に兵を送り、城を急襲して大森藤頼から奪いました。

北条早雲は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(小田原高校がある場所)を詰の城としました。

コミック

伊勢新九郎盛時(通称:北条早雲)を主人公とした ゆうきまさみ「新九郎、奔る!」がおススメです。

居館部については後北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説です。

異説では、15世紀の遺構が実際に発掘されている現在の三の丸北堀付近にあったとされます。

この場合、大森氏時代には、もっと東海道に近いところに居館部があったことになります。

後北条氏は大規模な拡張工事を行い、山地と平地を結んで大きな城郭にしました。

城の中心は現在復興天守の建つ位置ではなく、小峯山、八幡山のほうでした。

後北条家3代目当主の北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれました。

永禄4年(1561)に越後の長尾景虎(上杉謙信)が関東の諸将とともに11万3000人の大軍勢で小田原城を包囲し1ヵ月に及ぶ攻城戦を行いましたが、城を陥落させることはできませんでした。

甲斐の武田信玄も永禄12年(1569)に同城を攻めましたが、城下に火を放つ程度で退去しています。

上杉謙信と武田信玄を退かせた城です。

小田原の役

後北条家は、豊臣秀吉の攻撃に備え、本丸・二の丸・三の丸の外側に城下町を囲む大外郭(総構)を構築しました。

天正18年(1590)に豊臣秀吉は小田原城の北条氏政・氏直父子を攻めました。「小田原の役」です。

豊臣秀吉は石垣山城を築いて、21万といわれる大軍で小田原城を包囲し、その間に別働隊が後北条氏の諸城を攻略しました。

小田原城は3ヵ月に及ぶ籠城をしましたが、降伏し無血開城しました。

関八州に移封された徳川家康は、譜代の大久保忠世を小田原城に封じています。

江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となりました。

八幡山は放置され、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭となっています。

巨大な総構(そうがまえ)

小田原城の最大の特徴は、総構と呼ばれる広大な外郭です。

後の大坂城の惣構を凌いでいました。

現在の小田原高校のある八幡山の山上に本丸を置き、総構堀は当時の小田原の町全体を八幡山から海側に至るまで総延長9kmの土塁と空堀で囲みました。

小田原城は、二の丸総堀、三の丸総堀、総構堀の三重の堀で囲われています。

平地部及び八幡山古郭外周の堀が繋がっているのが二の丸総堀。

三の丸堀および南側の天神山丘陵の空堀、最西端の小峰大堀切までが三の丸総堀。

小峰大堀切は中世城郭部最大です。

北西部の桜馬場、稲荷森の総構堀が残っています。

平地部の水堀は消滅するか、暗渠化しています。

慶長19年(1614年)、徳川家康は数万の軍勢を率いて総構えを撤去させましたが、遺構が現存しています。

お鐘の台曲輪付近の空堀および土塁、早川口付近の二重土塁、幸田口と蓮上院付近の土塁などです。

総構えは、古地図にも存在が示されており、小田原城下と城外の境界となりました。

明治初期における小田原町の境界も総構えです。

江戸時代

後北条氏没落後に城主となったのは大久保忠世から始まる大久保氏です。

10万石前後の譜代大名の居城となりました。

2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、一度改易の憂き目にあっています。

城は江戸幕府の直轄地となり城番がおかれました。

2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれますが、実現しませんでした。

その後、城代が置かれた時期もありましたが、元和5年(1619)に阿部正次、寛永9年(1632)に春日局の血を引く稲葉氏が3代続きます。

この時代に現在残る小田原城の姿に整備されました。

貞享3年(1686)には再興された大久保忠朝が再び入封し、以後、10代の大久保氏が182年間続いて明治維新にいたります。

小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場でした。

なお、小田原藩大久保氏の大名となった支藩(分家)には荻野山中藩(現在の神奈川県厚木市)があります。

小田原城は、江戸時代を通して寛永10年(1633年)と元禄16年(1703年)の2度も大地震に遭いました。

元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けています。

天守が再建されたのは宝永3年(1706年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続しました。

明治時代以降

明治時代に廃城となり、明治3年(1870)から明治5年(1872)にかけて、同城内の建造物はほとんど取り壊され、天守台のあった場所には大久保神社が建てられました。

明治34年(1901)に城跡に小田原御用邸が建設されます。

明治42年(1909)には解体を免れた唯一の遺構の二の丸平櫓(ひらやぐら)の修築が行われました。

大正12年(1923)の関東大震災で御用邸は大破し、平櫓も倒壊します。

昭和25年(1950)に天守台の整備が始まり、城跡は小田原城址公園として整備されます。

昭和35年(1960)にはRC構造の外観復元した天守がつくられました。その後、常磐木門、銅門、馬出門が復元されました。

小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が、現在の県立小田原高等学校付近の高台(八幡山)に築いた山城でした。城の規模や築城年は明らかになっていませんが、15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられています。
15世紀末、伊勢宗瑞(後の後北条早雲)が小田原に進出し、以後、後北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していきました。小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総延長9kmに及ぶ総構の出現に至ってその規模は最大に達しました。
しかし、天正18年(1590)、石垣山一夜城の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより後北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えました。
後北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されましたが、稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。
貞享3年(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。
小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治5年までに城内の多くの建物は解体されました。後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに明治34年には、二の丸に御用邸が建てられました。しかし、大正12年(1923)9月の関東大震災により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われてしまいました。
その後、昭和9年(1934)に隅櫓が再建され、昭和35年(1960)5月には廃城以来90年ぶりに市民待望の天守閣が復興されました。続いて昭和46年(1971)3月に常盤木門が、平成9年10月に銅門、平成21年3月には馬出門が完成しました。
小田原城は、昭和13年(1938)8月に二の丸・三の丸の一部が、昭和34年(1959)5月に本丸と二の丸の残り全部が国の史跡に指定されています。

https://odawaracastle.com/index.php?burl=history/
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小田原城の見どころ

御茶壺橋

御茶壺曲輪

御茶壺曲輪の周辺

本丸東堀跡

常盤木門

本丸跡と天守閣

天守の手前に広がる広場が本丸跡です。

本丸御殿が残る城跡はほとんど無いので、本丸=天守と思いがちです。

本丸跡

天守閣内の展示

ういろう

「ういらう」、つまり「ういろう」のことです。

名古屋のういろうが有名ですが、小田原の薬問屋の「ういろう」家が発祥だそうです。

摩利支天像

天守の最上階に安置されています。どこの城でも同様に、守護神を安置して城の安全を祈願しています。

御城印

小田原城の概要

別名小峯城(小峰城)
小早川城(小早川館)
城郭構造平山城
天守構造複合式層塔型3重4階(1633年 築)
再興時(1706年 再)
復興天守(1960年 RC造復興)
築城主不明
主な改修者上杉氏、北条早雲、大久保忠世、稲葉正勝
主な城主後北条氏、阿部氏、稲葉氏、大久保氏
廃城年1871年(明治4年)
遺構石垣、土塁、水堀、空堀、大堀切、土塁、郭、障子堀跡
指定文化財国の史跡

公式ページ

【公式】小田原城 難攻不落の城

住所&地図

所在地: 〒250-0014 神奈川県小田原市城内
電話: 0465-22-3818