ちくま新書の歴史講義シリーズは大学の半期の講義と同じく、一冊で15回分の講義が収録されています。
本書に収録されている時代については次にまとめています。
- 古墳時代から大和王権の成立まで
- 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
- 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
- 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
- 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
- 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
古代史講義シリーズ第二弾
本書は「古代史講義」シリーズの第二弾です。
単純に戦乱の経緯を叙述するだけでなく、最新の研究状況を紹介しつつ、時代背景となる古代社会のありさまを伝えつつ、教科書の記載で広まった誤解などを正すのを目的としています。
ちくま新書の歴史講義シリーズ
- 考古学講義
- 古代史講義
- 古代史講義【戦乱篇】 本書
- 古代史講義【宮都篇】
- 古代史講義【氏族篇】
- 中世史講義─院政期から戦国時代まで
- 中世史講義【戦乱篇】
- 近世史講義─ 女性の力を問いなおす
- 明治史講義【テーマ篇】
- 明治史講義【人物篇】
- 昭和史講義─最新研究で見る戦争への道
- 昭和史講義2─専門研究者が見る戦争への道
- 昭和史講義3─リーダーを通して見る戦争への道
- 昭和史講義【軍人篇】
- 昭和史講義【戦前文化人篇】
- 昭和史講義【戦後篇】上
- 昭和史講義【戦後篇】下
- 平成史講義
要約
磐井の乱 大髙広和
527年、継体天皇の時代に九州の「筑紫国造」磐井が起こしたとされる反乱です。
最大かはともかくとして、古墳時代では最も有名でかつ重要な戦乱でした。
ヤマト王権による新羅出兵を磐井が妨害したことが発端とされます。
乱は当時の朝鮮半島情勢と密接に結びついていたと考えられます。
そのため東アジアまでを視野に入れつつ王権と磐井の双方から経緯や背景を見ていかなければなりません。
応神天皇の五世孫とされるオホド王(継体天皇)が57歳の時に武烈天皇が崩御し、北陸から大伴金村らが迎えて即位したとされます。
大伴金村とともに大連に任命されたのが磐井の乱の鎮圧に遣わされる物部麁鹿火でした。
継体天皇は即位後すぐには大和へ入れませんでした。大和に落ち着いたのは即位20年後(7年とも言われます)のことと伝えられています。
継体天皇の権力が不安定であったためと見られます。
継体天皇の権力基盤は淀川水系流域と見られます。
継体朝では朝鮮半島での大きな外交案件が進行しました。高句麗に対抗するため、百済と新羅が南進を目論んでいたのです。
継体天皇6年に百済からの求めに応じて大伴金村が任那の4県を割譲したとされます。
王権内部でも批判があったようですが、百済の南進を認めるのが倭国の外交方針だったようです。
日本書紀によると、継体天皇21年、新羅に侵攻された南加羅などこ復興のため、近江毛野らが6万の兵を率いて任那に向かいます。
これに対して磐井は朝廷への反逆の機会を狙っており、それを知った新羅が磐井に賄賂を送って、毛野軍を阻止するように勧めたとされます。
これに対して継体天皇は物部麁鹿火を将軍に選びます。両陣営が戦い、磐井が敗れます。
しかし日本書紀に書かれている内容をそのまま鵜呑みにはできません。
そもそも当時は郡の行政単位がなく、国造も乱後に設けられた制度と考えられています。
なぜ磐井がヤマト王権に反乱したのかは不明ですが、九州で相対的に自立性の高かった豪族が、継体天皇の即位や、朝鮮半島情勢への対応に不満を抱き、ヤマト王権と対立する新羅の後押しがあったのは、実際に近いと考えられます。
ヤマト王権は磐井を鎮圧し、地方豪族の支配と、列島内での外交権の一元化を進展させました。
蘇我・物部戦争 加藤謙吉
587年、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした戦いを近年は「丁未の役(ていびのえき)」と呼ぶことが多いです。
従来、仏教の受容を巡る豪族間の対立とされ、崇仏派の蘇我氏が排仏派の物部氏を武力で打倒した事件と理解されてきました。
しかしこれは後年に仏教関係者が行った造作に過ぎないとする説も提示されています。
6世紀の物部氏は、東漢氏や南河内の渡来人と結んだ蘇我氏に対抗して、西漢氏や中河内の渡来人との関係を深めていました。
そのため物部氏が排仏派と考えるのには無理があるようです。
蘇我氏は蘇我稲目の代に政界の表舞台に登場します。
蘇我氏は没落した葛城氏の支族の可能性があり、5世紀代の大王家葛城氏の姻戚関係踏襲します。
しかし実質的に新興氏族に過ぎない蘇我氏は、前代以来国政に参画してきた有力氏の物部氏と比較すると、政治力、軍事力、経済力のいずれにも劣っていました。
この蘇我氏が物部氏を追い落とすことができたのは、大王家との通婚により外戚の地位を得たことと、マヘツキミ勢力と連携して物部氏を孤立化させたからでした。
物部氏が大王家と通婚できなかったのは、王権直属的な勢力からキサキを出さないのが古くから慣例だったためで、物部氏は蘇我氏の大王家との一体化を強める様子を座視するだけの状況でした。
またマヘツキミの大半が蘇我氏と同じ大和や畿内の土豪出身であり、葛城氏衰退後の逆境を乗り越えた一族であり、共通の利害関係に立っていました。
こうした中、587年に用命大王が急逝します。天然痘と見られます。
オホマヘツキミとマヘツキミが宮中に集められ、会議が開かれます。
日本書紀によると会議は用命大王の仏教帰依是非を巡るもので、崇仏派と排仏派の対立が激化したされます。
しかし真の狙いは用命大王後の王位継承問題を含め、重臣の意思統一と政治混乱の回避だとみられます。
物部守屋は会議で孤立します。守屋は馬子とマヘツキミの包囲網に追い詰められ、勝ち目のない戦に打って出るしかありませんでした。
物部氏は強力な軍事氏族でしたが、単独での挙兵の帰趨は最初から決まっていました。
日本書紀ではこの戦いを宗教戦争と位置づけましたが、実際はマヘツキミ勢力を巻き込んだ蘇我氏と物部氏政治的抗争に過ぎませんでした。
乙巳の変 有富純也
645年に起きた政変は、かつてその後の政治改革と合わせて大化改新と言われていました。
近年では区別して、政変を乙巳の変と呼び、政治改革を大化改新と呼ぶことが多くなりました。
政変は蘇我入鹿が中大兄皇子らによって暗殺され、蝦夷が自死を選びました。
権勢を奮っていた蘇我本宗家が滅亡し、天皇家を中心とした国家形成がスタートする画期となります。
日本書紀では天皇家をないがしろにして政治を独断したように書かれていますが、全面的には信用できません。
当時、東アジア世界では動乱が起きており、朝鮮半島の政変の一部はヤマト王政権にも伝わっている可能性がありました。
近年の学会では、こうした情勢の変化にヤマト政権は敏感に反応した考えられています。
ヤマト政権は朝鮮半島の情勢を踏まえ、強力な指導力を発揮できるリーダーを定めて新たな政治体制を模索していた可能性があります。
蘇我入鹿は古人大兄皇子を王位に就けようとしていたと考えられます。それを伺わせる事件が3年前の643年の上宮王家滅亡事件です。
上宮王家滅亡事件とは山背大兄王を襲撃した事件です。
643年、645年と続いた権力闘争の契機は東アジアの情勢でした。
白村江の戦い 浅野啓介
663年、倭国は滅亡した百済を救援するために朝鮮半島に兵を送り、唐と新羅の軍に白村江で敗れた戦いです。
戦いの直接のきっかけは660年の百済の滅亡です。日本は百済を救うために軍の準備を始めます。
661年に第一次派兵を行い、662年に第二次派兵を行います。そして663年に白村江の戦いで大敗します。
政権はすぐさま防衛体制に入り、防人を配し、水城を築きます。665年には複数の城を築きました。
666年に唐が再び高句麗を攻めると、667年に中大兄は都を飛鳥から近江に移します。同時に複数の城を築きます。
そして翌年668年に中大兄は即位して天智天皇になります。
唐は倭を攻める理由があまりなかった可能性があり、高宗による泰山での封禅の様子が伝わると、各地の築城をやめています。
そのため古代山城に築城途中のものがあると考えられています。
壬申の乱 北啓太
672年に天智天皇の弟大海人皇子が挙兵し、天皇の子大友皇子率いる近江大津宮の朝廷を倒した大乱です。
反乱を起こした側が勝ち、大海人皇子から天武天皇となり、天武系の皇統が約100年続きました。
壬申の乱は皇位を巡る争いでしたが、当時の社会・国際情勢が絡んでいました。
大海人皇子はそれらの情勢を読み取り、不満分子を取り込み、天皇を頂点とする中央集権的体制へ加速して、後継者による701年の大宝律令の成立へ結びつけました。
壬申の乱は律令国家体制成立の道程としても大きな意味を持ちました。
天智朝で大海人皇子が東宮であったという見方は後退していますが、最も有力な皇子だったことは疑いの必要がありません。
しかし天智天皇と大海人皇子の間には確執が芽生えていたようです。
百済救援の最中に始まった天智朝は、大化以来の中央集権体制形成の施策には豪族らや民衆の反発を招く面があり、乱の伏線になります。
外交方針をめぐる対立が乱の原因と考える見方もあります。
671年に天智天皇が病床に伏すと大海人皇子は吉野に隠退します。
皇位継承が問題となる中、大友皇子は体制固めをし、大海人皇子が宮廷内に残ると紛争が起き、しかも大海人皇子の方が不利と見て吉野に退いたと考えられます。
外交方針を巡る対立の先鋭化から身を避けた面も考えられます。
壬申紀によれば672年に、朝廷の攻撃から身を守るためやむを得ず立ち上がったとされます。しかし、壬申紀の挙兵理由は信用できないものがあります。
かつては乱の計画非計画論争がありましたが、今日では計画性を認めるのが普通で、大津退去時から反乱の意志を持っていたともされます。
大海人皇子は東国で国司を味方にし、迅速に兵を集めました。動員の範囲は美濃、尾張、伊勢、その周辺地域と考えられます。
大海人皇子が兵をすぐに集められたのは、朝廷が唐の要求に応じ、新羅派遣軍を準備しており、これが整ったタイミングだったという説があります。新説ですが、有力と言えます。
もしくは、美濃や尾張での山稜造営名目の兵を接収したという説もあります。
大海人皇子の東国入りを知った近江の朝廷は大騒ぎとなりました。
朝廷の大海人一族への警戒が元々緩かったと考えられます。
大海人皇子の勝因は、不破と鈴鹿を閉じて朝廷と東国を遮断し、東国の軍事力を自己のものにしたことです。
これにより軍事力に大きな差が生まれました。
また、大海人皇子への支持の広がりもありました。背景には半島出兵と敗戦、その後の防衛の負担、改革への不満などが重なり、大海人皇子が排除され、大友皇子が継承することへの不満があったのでしょう。
長屋王の変 山下信一郎
729年、当時の政府で最高権力者であった長屋王が謀反で失脚、妻の吉備内親王、子息4人の王ととともに平城京の自宅で自殺しました。
かつての通説は、藤原光明子を皇后にしようと目論む藤原氏が、反対するであろう長屋王を除いた政変というものでした。
最近ではこれに加えて長屋王と吉備内親王との間に生まれた男子が皇位継承の有力候補となる可能性があり、それを恐れた藤原氏が長屋王に濡れ衣を着せて、王夫妻と男子を抹殺したとする見方が有力です。
「続日本紀」の記事には長屋王は冤罪であると書かれています。
どうして無実の罪を着せられてしまったのでしょう。
血筋では、天智天皇と天武天皇の血を引く皇子女を両親に持っていました。正妻は草壁皇子の皇女吉備内親王でした。
そして、吉備内親王が生んだ子女は皇孫の扱いを受けていました。
政界進出においては元明天皇の甥・長屋王への大きな期待があったと考えられます。
しかし、元明天皇の死により大きな後ろ盾を失い、聖武天皇の即位、藤原四子の政治的進出により、地位は不安定になります。
1986年の発掘調査によって、長屋王邸跡から約3万5千点の木簡が発見されました。これにより長屋王家の経済基盤や家政組織が判明しました。
長屋王の変が起きる2年前の727年に、聖武天皇と藤原光明子との間に皇子が生まれます。
皇子は乳飲み子のまま異例なことに皇太子に立てられます。
このことは聖武天皇と藤原氏の皇位継承に対する強い執着の表れとされます。
しかし、皇子は病没してしまいます。
岸俊男氏によれば、このまま藤原氏の血を引かない皇子が天皇になり、天皇の外戚の地位を失えば、藤原氏の権勢の低下は避けられない。
そのため、皇位継承の機会を有する皇后に目をつけ、光明子を皇后へ昇格させ、子ができるのを待ち、もしもの場合は光明子を天皇に即位させようと図ろうとしました。
しかし律令下では皇后になれるのは内親王だけのため、光明子を皇后に昇格させようとすれば、規則に厳密な長屋王が反対すると考え、藤原氏は濡れ衣を着せて抹殺したと論じました。
これが長い間通説でしたが、河内祥輔氏は藤原氏中心の権力闘争史観だとして、聖武天皇の立場から分析しました。
聖武天皇は生母が皇女ではなく、藤原氏出身でした。そのため皇統に劣等感を持っていたため、自身の皇統を確立することを計画していました。
誕生した皇子が病没したことに衝撃を受けると同時に、長屋王と吉備内親王の子に脅威を感じ、抹殺することで自身の子孫のみ皇位継承権があることを示したと分析したのです。
現在では、長屋王の変は、聖武天皇の皇太子死去を直接の契機とし、長屋王家への脅威を感じた聖武天皇と藤原氏が謀反の罪を被せた皇位継承問題を根底にした政変と考えられています。
藤原広嗣の乱 松川博一
藤原広嗣は藤原式家の宇合の長男として生まれました。藤原不比等の孫にあたり、父・藤原宇合は藤原四子の1人でした。
藤原四子は729年に長屋王を自殺に追い込み体制を盤石にしますが、737年に蔓延した天然痘で藤原四子の全員が世をさります。
代わって政権を担ったのが皇族出身の橘諸兄でした。
この時、藤原広嗣は20代はじめで、従五位下になったばかりでした。
年末になって藤原広嗣に太宰府の次官である太宰少弐として九州への赴任が言い渡されます。
聖武天皇の勅には、藤原広嗣がしきりに親族を貶めることを言うので左遷することで改心させようと述べられていますが鵜呑みにはできません。
そもそも太宰府は地方最大の官司であり、要職の赴任先でした。
そのため広嗣の太宰少弐任命は一概に左遷とは言えませんでした。
当時の太宰府の課題は疫病、天災からの復興でした。また新羅との軍事的な緊張関係が高まっていた時期でした。
橘諸兄政権は地方の行財政改革、公民の救済政策を断行していましたので、太宰府の高官は重要なポストでした。
740年に広嗣は時政の得失と天地の災異について上表文を中央政府に提出します。
広嗣は中央政府から遠ざかり、不満と焦りがあったのも事実と思われます。
主張は悪政により天変地異が起こり、その元凶である僧正の玄昉と吉備真備を除かなければならないとするものでした。
続日本紀でも同じことが書かれていますが、広嗣の反乱の動機を政治批判から2人への私怨に転化しようとする藤原氏の意図があったという指摘もあります。
上表文を受け取った聖武天皇は反乱と判断して広嗣を討伐する軍を九州に送ります。
広嗣軍は政府軍に敗れますが、1万人を超える兵士を動員できました。
中核となったのは太宰府常備軍と考えられています。
742年、太宰府は廃止されますが、743年には鎮西府が置かれました。
鎮西府が置かれた一番の理由は太宰府常備軍の再置だったのではないかと思われます。
そして745年に太宰府が復置されます。
この間、聖武天皇は都をたびたび変えました。太宰府で起きた反乱が王権を不安と混乱に陥れたのでした。
橘奈良麻呂の変 小倉真紀子
757年、橘諸兄の子・橘奈良麻呂が光明皇太后の信任を得て権力を握っていた藤原仲麻呂を倒すために反乱を計画するも、未然に発覚して滅ぼされた事件です。
近年では、藤原仲麻呂にたいする反対派の単なる抵抗ではなく、皇位継承に関する争い、特に孝謙天皇の即位に対する反発が中核にあるとする見解が示されています。
しかし、橘奈良麻呂の主眼は阿部内親王(=孝謙天皇)の即位ではなく、その次の皇位継承だったのではないかと考えられます。
橘奈良麻呂が皇嗣に立てようとした黄文王は長屋王の子でした。
一方で変に対して藤原仲麻呂は厳しい措置を施しました。
日本紀略では橘奈良麻呂の変が、讒言による右大臣藤原豊成の左遷と復任の事件として扱われています。豊成は仲麻呂の同母兄です。
そのため、橘奈良麻呂の変の本質は、藤原豊成の政界排斥事件と評する見方があります。
藤原仲麻呂は、この事件を利用して橘奈良麻呂と藤原豊成の二人を一気に排除したのでした。
藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱 寺崎保広
奈良時代に権力者同士が都を舞台に直接戦闘行為に及んだのは藤原仲麻呂の乱だけでした。
事件は天皇の地位を巡る争いでした。
藤原仲麻呂が殺され、一度退位した孝謙天皇が再び天皇の地位につき、天武天皇の血筋で受け継がれてきた皇位を誰に譲るのかという問題が振り出しになり、奈良時代の終わりへ向かうきっかけとなります。
戦闘は鈴印の争奪から始まりました。駅印、内印とともに天皇を象徴するものでした。文書行政が浸透してきたことが伺える内容です。
乱は権力者の争いとしては短期間で優劣が決しました。
上皇側の勝因は有力武将がついたことがあげられますが、これ以上に戦いが開始される前から仲麻呂派と反仲麻呂派のせめぎ合いが続けられ、すでに仲麻呂は孤立を深めていました。
律令国家の対蝦夷戦争―「三十八年戦争」を中心に 永田英明
720年の蝦夷の反乱は重要な戦いでした。
8世紀初めに進められた陸奥国北部への関東からの大規模な移民に、蝦夷たちが反発した事件でした。
近年の研究により戦乱の後大規模な改革が行われたことが明らかになり、事件の衝撃の大きさが再認識されています。
改革の最中である724年の海道蝦夷の反乱以後、774年までの50年は大きな反乱は起きず、特に750年代半ばまでは比較的安定した社会状況が続いたようです。
774年に陸奥国の海道蝦夷が桃生城を襲撃します。38年戦争の始まりとされる事件です。
突然一方的に起きたわけでなく、きな臭い状況が続いている中での出来事でした。
戦果は出羽国まで広がり、混沌とします。
780年に朝廷から位階を得ていた伊治公呰麻呂が、普段から夷俘と侮蔑してきていた道嶋大楯を殺害し配下の蝦夷とともに紀広純を殺害、多賀城を襲いました。
政府はすぐさま藤原継縄を征東大使に任命し、陸奥に派遣します。しかしすぐに軍事行動をしなかったため、追加の軍を出しますが、戦果を挙げられませんでした。
事件は個人の私怨を超えて広範な騒乱に発展しました。
差別を受けつつ服従・協力を余儀なくされた他の蝦夷も離反していました。しかも反乱には移民系の人々も含まれていたようです。
781年に桓武天皇が即位します。784年には大伴家持を持節征東将軍として征夷軍を立ち上げました。しかしこの計画は家持の死などによって自然消滅しました。
本格的な準備は786年から始まります。788年に紀古佐美将軍らが赴き、789年には多賀城に集結します。
なかなか軍事行動に移せませんでしたが、ようやく軍事行動を始めると、蝦夷側に登場したのがアテルイ(阿弖流為)でした。
そして、アテルイらの巧みなゲリラ戦に大敗をきします。
桓武天皇は次の征夷の準備を始め、征東使幹部に名を連ねたのが、坂上田村麻呂でした。
征夷で成果をあげた田村麻呂は797年に征夷大将軍に任じられ、801年に現地で成果をあげます。
802年にアテルイが磐具公母礼とともに降伏します。
アテルイらが処刑され、胆沢城が完成した後に、北方に志波城が造られました。
次の征夷のための城でしたが、805年に軍事と造作を停止します。
相次ぐ征夷と造都による国家財政の窮乏と疲弊のためでした。
近年の論点を3つ紹介。
1.38年戦争の背景は、宮城県の大崎平野から山形・秋田県境を結ぶラインが南北の境界ラインとみられるのに、それを超えて城柵を設置したことを原因として重視しています。
2.蝦夷と呼ばれた人々は比較的フラットな構造の社会だったと言われています。一方で38年戦争の広がりから、情報のネットワークを持っていた可能性が伺えます。
3.近年重視されているのは、戦後の東北北部、とりわけ陸奥北部の社会が決して国家の統治が行き届いた安定した社会ではなかったという点です。
平城太上天皇の変 佐藤信
810年に起きた争乱は、かつて薬子の変と呼ばれてきましたが、最近では平城太上天皇の変と称されるようになってきています。
争乱は嵯峨天皇と同母兄の平城太上天皇との間の政治権力の対立が原因です。
平城太上天皇は平安京から平城京への遷都を強行しようとしましたが、嵯峨天皇は迅速な行動で制圧します。
平城京から東国へ入ろうとした平城太上天皇や藤原薬子らは、先回りして道を封じた嵯峨天皇側に抑えられました。
平城太上天皇は平城京へ戻って剃髪して出家、薬子は毒を仰いで自殺します。
平城太上天皇の寵愛を受けて権勢を誇った藤原薬子と兄の藤原仲成が事変の張本人として責を負うことになりました。
変によって平安京が千年の都となる基礎が固まったこと、天皇と太政官を結ぶ役職が後宮女官から蔵人に変わったことなどが大きな変更でした。
初代蔵人には藤原冬嗣が任じられ、9世紀の藤原北家台頭の原点となります。
皇位継承の焦点が皇太子の廃位につながることを明示した事件でもありました。
嵯峨天皇は宮廷で大きな力を持ち、のちに太上天皇になったときに、太上天皇が天皇と同等ないしそれを凌ぐ力を持つようになりますが、奈良時代とは異なる天皇制のあり方を開くことになります。
二所朝廷という危機的状況を打開した嵯峨天皇は、礼の秩序を重んじながら事件を収束させました。
その際に、変の首謀者はあくまでも藤原薬子として罪を責め、平城太上天皇には罪を問わず礼遇する方針が貫かれました。
しかし、この変には薬子だけでなく平城太上天皇の意志も存在したと見た方が自然です。
応天門の変 鈴木景二
866年に応天門が炎上しました。この時期には飢饉と疫病や富士山、阿蘇山の噴火などの自然災害も続き世情不安が高まっていました。
この火災に端を発した政変で伴善男らが放火犯として流罪に処せられました。
この過程で藤原良房が摂政になり、摂政制の成立過程の出来事として捉えられています。
また、ヤマト政権以来の豪族の没落の契機にもなりました。
事件そのものについて、放火か失火か、真犯人が伴善男なのか、藤原良房の陰謀ではないか、などが話題になります。
伴善男は名族大伴氏の一族です。聡明でしたが、性格は残忍苛酷だったと伝わります。
この事件では源信に嫌疑がかかりますが、藤原良房の外孫の惟仁が文徳天皇の次に即位できたのは源信のお陰であると、藤原良房がかばうことになります。
応天門の炎上の際、政府は原因を把握できていませんでした。真相は不明なのです。
伴善男の処罰は、最後は天皇の強い政治的判断による断罪でした。冤罪である可能性が高いのです。
一方で藤原良房の関与は、事変そのものに陰謀を感じさせないのですが、これを機会に、証拠不十分でも伴善男を閣僚から排除することを考え、判断に迷う清和天皇を強く誘導したのかもしれません。
変に関わる人物として注目されるのが、藤原良房の弟の良相です。良相は伴善男と親しく、良房は善男の断罪を行うことで、良相親子の排除を進めたとみる説があります。
事変は後世に影響を与えます。伴善男の御霊化です。
菅原道真左降事件 森公章
901年に右大臣菅原道真が突如として太宰権師に左降します。菅原道真左降事件、昌泰の変です。
醍醐天皇を廃位して、異母弟の斉世親王を擁立しようとしたとされます。
原因は様々な説が唱えられています
- 藤原時平の陰謀
- 廃位は道真ではなく源善らの計画
- 宇多天皇が廃位を考えた
- 道真も源善の廃位計画に参加
- 醍醐天皇の過剰反応
宇多天皇、醍醐天皇の政治は寛平・延喜の治と称され、菅原道真と藤原時平の下で改革が進められました。
菅原道真は宇多天皇からの信任が厚く、宇多天皇の譲位後も親密でした。これも昌泰の変の一因として考慮する必要があります。
宇多天皇が醍醐天皇に譲位し、藤原時平が左大臣、菅原道真が右大臣になります。醍醐天皇との関係は良好だったと考えられます。
ただし菅原道真は家系が公卿を排出する家系ではなく、儒林の出身であり、貴族社会からの批判の眼差しがあることを充分認識していました。
こうした中、以前から因縁のあった三善清行は菅原道真にわきまえて右大臣を辞職するよう勧告します。道真が辞職できないことを見越して、道真を追い詰める策略だったとも言われます。
醍醐天皇は妃が亡くなったので、藤原時平の姉妹を女御に迎えようとしましたが、宇多太上天皇はあくまでも反対でした。
一方で異母弟の斉世親王は道真の娘と婚姻していました。醍醐天皇は道真と宇多太上天皇との関係、かつて自分の立太子・即位を左右した道真の動向に疑念が生じ、藤原時平との関係形成に傾いたのではないかと考えられます。
昌泰の変の際に内裏に入ろうとした宇多太上天皇を門外に押し留めたのも、父子関係が捻れたことを示しています。
こうしたことから、道真左降事件で、昌泰の変は醍醐天皇の過剰な反応の要因が大きいと考えられます。
平将門の乱・藤原純友の乱 寺内浩
平将門・藤原純友の乱は承平天慶の乱と呼ばれてきましたが、乱について研究が進み、承平年間は、将門が平氏一族の内紛に明け暮れ、純友も海賊を討つ側にいた事がわかりました。
両者が反乱に立ち上がったのは、天慶年間になってからのことのため、最近は天慶の乱という呼称が用いられるようになってきています。
天慶年間に入ると、自然災害と天候不順が全国を襲いました。各地で群盗や海賊の活動が盛んになりました。
938年に京都で大地震が起きたり大雨で鴨川が氾濫しました。東国では武蔵国で橘近安、伊豆国で平将武の騒乱が起きました。
939年は旱魃に見舞われ、京都では盗賊が多く現れ、東国では群盗の活動が盛んになりました。相模や武蔵、上野に押領使が置かれ、尾張では国守が射殺されます。出羽国では俘囚の反乱が起き、秋田城軍と合戦がされています。瀬戸内海では海賊が再び姿をあらわすようになりました。
全国的騒然とした状況でした。こうした中で将門や純友が反乱に立ち上がります。
立ち上がった直接の理由には不明の点が多いですが、全国的な騒乱状況が影響を与えていたのは間違いないでしょう。
将門純友共謀説がありますが共謀関係にあったとは考えられません。
なお、乱の呼称は時代とともに変遷しています。江戸時代から明治20年代頃までは天慶の乱と呼ばれ、承平天慶の乱の呼称が定着するのは戦後になってからでした。最近では天慶の乱が一般化しつつあります。
これは日本紀略の記載を重視するか、本朝世紀の記載を重視するかによる違いです。
前九年合戦・後三年合戦 戸川点
かつて前九年の役・後三年の役と呼ばれた戦乱は、前九年合戦・後三年合戦と呼ばれるようになっています。
戦乱は東北地方を舞台に、1051年から1062年の12年間にわたって行われた前九年合戦と、1083年から1087年の5年間の後三合戦に分かれます。
呼称と実際の合戦の年数に齟齬があり、なぜこのような呼称になったのかは幾つかの説があります。
簡単には、前九年合戦はかつて奥州十二年合戦と呼ばれており、それが前・後の戦いの総称と誤解され、前九年と後三年と呼ばれるようになったのだろうと言われています。
また、「役」には異民族や他国との戦いに用いられる事が多く、安倍氏や清原氏を蝦夷として蔑視して「役」の語を用いてきたのではないかと指摘もあり、最近は「合戦」の名称を使うようになっています。
合戦は安倍氏と清原氏、源氏が絡み、奥州藤原氏の勃興につながります。
前九年合戦では安倍頼良・貞任父子が国司と対立し、さらに源頼義と戦いました。
安倍氏はかつての通説では蝦夷俘囚の長でしたが、研究が進み、俘囚の長は自称に過ぎない事が判明しました。
安倍氏の出自については諸説が提起され、結論を見るに至っていません。
前九年合戦発端は権守藤原説貞の子と安倍氏の婚姻をめぐるトラブルでした。当時の東北地方には特産品による富を狙い様々な勢力が入り込んでいました。安倍氏や奥州藤原氏もそうした勢力と考えられています。
教科書的にはこの戦乱を通じて源氏と東国武士団の主従関係が強められたとされますが、源頼義が動員した兵は朝廷の命令による諸国から集められた兵で、東国武士は意外に少なかったようです。
そのためこの段階では源氏と東国武士団の間にはそれほど強固な主従関係は結ばれていなかったと考えられます。
清原氏の助けにより安倍氏は敗北し、源頼義は伊予守に任じられ、奥州は清原武則が鎮守府将軍になります。
この清原氏の内紛から起きるのが後三年合戦です。
清原武則の子・武貞は夫(藤原経清)を失った安倍頼期の娘を後妻に迎えます。後妻には子の清衡がいましたが、子供も引き取ります。
かつては勝者による略奪婚とみなす説が一般的でしたが、今では清原氏が奥六郡を支配するにあたって、清原氏と安倍氏をつなぎ、正当性を担保する存在として丁重に迎えられたと考えられています。この後妻との間に家衡が生まれます。
この結果、清原氏には先妻の子・真衡、後妻の連れ子の清衡(藤原経清の子)、後妻との子・家衡の3人の後継候補が存在することになり、清原氏の当主争いから後三年合戦が引き起こされます。
1083年当時の清原氏の当主は真衡でした。真衡が一族の長老・吉彦秀武を怒らせてしまい、吉彦側についた清衡と家衡とも戦う羽目になります。
同じ頃、源義家が陸奥守として下向してきました。義家は真衡につき、清衡らは敗れます。しかし、真衡が急死し、いったん後三年合戦は終結します。
次に清衡と家衡の当主争いが始まります。
先に仕掛けたのは家衡でした。清衡に家族が殺され、清衡は源義家に要請し、戦いは大規模化します。しかし清衡と源義家は敗れます。
続く戦いでも清衡と源義家は苦戦するのですが、義家の弟・源義光が駆けつけ、勝利を収めます。
義光は官職を投げ打って救援に駆けつけたとされます。源氏にとって東北への勢力拡大の性格を持つ合戦だったと言えます。
合戦のあと、源義家は朝廷から恩賞を与えられませんでした。朝廷が私戦と断じたからです。
一方の清衡は奥州藤原氏の初代藤原清衡となります。