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薬師寺の歴史と見どころは?(奈良県奈良市)白鳳時代を代表する寺

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歴史

天武天皇が皇后の病気平癒を願って創建

天武天皇が、皇后・鵜野讃良皇女(後の持統天皇)の病気平癒を願って、飛鳥時代の680年(天武天皇9年)に建立を発願したことが創建のきっかけです。

最初の薬師寺は現在の奈良ではなく、飛鳥の藤原京に造られました。

その後、平城京への遷都に伴い、718年ごろに現在の西ノ京へ移転しました。

白鳳文化を代表する大寺院へ

奈良時代の薬師寺は、金堂・東西の塔・講堂などが整然と配置された壮大な伽藍を持ち、龍宮造りとも称されました。

薬師寺を代表する文化財である薬師三尊像や聖観音菩薩像などが造られました。

薬師三尊像は、白鳳時代の金銅仏を代表する作品として知られています。

戦火や災害による衰退

薬師寺は火災や戦火などによって大きな被害を受けます。

1528年の兵火では金堂などが焼失し、長い間、創建時の伽藍を失った状態が続きました。

奇跡的に創建時から残ったのが、東塔です。

法相宗大本山
薬師寺

当寺は、第四十代天武天皇の発願によって飛鳥の地、藤原京に建立(六八〇)され、その後、平城遷都に伴って養老二年(七一八)平城右京六条二坊(現在地)へ移された。
金堂本尊薬師如来像に、日光・月光両菩薩像、東院堂本尊聖観世音菩薩像と、何れも円満相好な美しさを白鳳時代の優雅な鋳金技法で表現している。これらは比類なき仏像と仰がれ、全て国宝である。また金堂本尊薬師如来台座は珍重な図様彫刻として名高く国宝に指定されている。
東塔は創建当時からの唯一の遺構で頂の水煙は実に美しい。
インド渡来で日本最古の仏足石と、萬葉仮名三十八文字からなる二十一首の歌が鮮明に刻まれた仏足跡歌碑は修正会本尊である吉祥天女画像と共に天平時代各分野の典雅である

1998年には「古都奈良の文化財」の構成資産の一つとして、世界文化遺産に登録されました。

見どころ

金堂

1976年に復興された建物で、薬師寺の本尊である薬師三尊像を安置しています。

堂内には、薬師如来、日光菩薩、月光菩薩の薬師三尊があります。

金堂縁起

薬師寺は天武九年(六八〇)に藤原京に造営され、平城遷都に伴い養老二年(七一八)に平城右京六条二坊(現在地)に移された。
享禄元年(一五二八)の兵火により堂宇の殆どを焼亡し、僅かに東塔・東院堂を余すのみであったが、幸いにも諸佛は辛うじて猛火に耐えて、漆黒の尊容はかえって輝きを増したのであった。
慶長五年(一六〇〇)、本尊薬師三尊の雨露を凌ぐ仮堂が建てられた。しかし約四百年の時間の流れにより老朽破損が進み、本尊を祀る金堂をなんとしても復興したいという願いから、昭和四十三年に般若心経の百万巻写経による金堂復典勧進を開始した。
当時の高田好胤管主を盟主とする一山僧侶による挺身的な勧進が行われ、その傍ら各界の協賛をも得て昭和四十六年に起工式を迎え、昭和五十年末、遂に百万巻の大目標を達成すると共に、翌昭和五十一年の春、金堂の落慶を見るに至った。
建築は古社寺建築の碩学の周到な調査研究に基づいた設計により、昭和の名匠たちが古代の工法に則って建立したものである。白鳳様式の二重二閣、五間四面で内陣には仏像・お写経の防災の為の鉄筋コンクリートの耐火構造、外陣には数千年を経た台湾の桧材を用い、往古の遺構を模しての木造建築として復典された。屋根氏は白鳳時代の出土瓦を忠実に模し、鴟尾や風鐸も同時代の参考史料に基づいて制作された。
全ての飾金具は古代のものに倣った。また内部の荘蔵、特に美麗を極める天井絵は東塔のそれに倣って復元されたものである。全国から納経された百万巻写経は、本尊の頭上高く設えた納経蔵に整然と納められ、永代にわたり薬師如来の宝前に供えられている。
経済的繁栄の陰にとかく心の荒廃が憂慮される現代において、この金堂に凝縮された浄苦提心は千年の後代までも不滅の光彩を放っことを信ずるものである。

東塔

創建当初から現存する、薬師寺で唯一の建造物です。

三重塔ですが、各層に裳階(もこし)という小さな屋根が付くため、六重塔のように見えます。

大小の屋根が繰り返される独特のリズムから、建築家・評論家のフェノロサが表現した凍れる音楽という言葉でも知られています。

東塔は2009年から全面解体修理が行われ、2021年に修理が完了しています。

東塔緣起

薬師寺東塔は白風様式を伝える数少ない建物の一つであり、卓抜な意匠を示す日本建築の至宝として最高の讃辞を捧げても、なお足りることを知らぬと賞されている。
塔とは澤尊の合利(遺骨)を祈りの対象としてお祀りする重要な建物である。
東塔は大小の屋根が交互に出入りする、裳階がつけられた特異な構造形式で、その幻想的なさまから「凍れる音楽」と称されている。
東塔の平面は一辺一〇五一米、高さ三四.一三米あり、三重塔としては稀にみる大きさと高さである。
最頂部にある水煙には衣を翻し飛翔する二十四の天人が透かし彫りされており、それぞれが軽快な律動感を表出、その意匠は極めて優れている。また、擦管には薬師寺創建の縁起が刻文されている。
長い歴史上で部分的な修理が幾度となく施され護られて来たが、近年の調査により心柱脚部の傷みが顕著であることが判明、文化庁及び奈良県の指導のもと、平成二十一年(二〇〇九)より各匠の技を結集し、史上初の全面解体による保存修理事業が行われた。
解体作業中、心柱の最頂部より仏舎利が発見され、再び同所へ戻すに際し五重(玻腐、純金、青磁、籃胎漆器、紬織)の入れ子式の新たな舎利容器が、平成の名工の技により誂えられ奉安なされた。
令和三年(二〇二一)春、全国から納められたお写経・お浄財等が佛心として凝集、全面解体修理は無事に完了、東塔は壮麗な姿と共に、千三百年の歴史を今に伝えている。

西塔

1981年に復興されたもの。

東院堂

現在の建物は鎌倉時代の再建で、堂内には国宝の聖観音菩薩立像が安置されています。

東院堂縁起

東院堂は養老年間に吉備内親王が元明天皇のために発願建立されたものである。
奈良時代は現在地の東側(現在の観音池)にあり、南向きに建てられていたが弘安八年(二二八五)に再建され、更に享保十八年(一七三三)西向きに替えられた国宝の建造物である。奈良時代の諸堂は土間が通例であるが、板床を敷き東暁禅堂と呼ばれたことを考えるに、鎌倉時代には禅の影響があったと思われる。
東院堂のご本尊は聖観世音菩薩(国宝・白風時代)といい、目に見えないもの、耳に聞こえない音を観し、人々の苦しみを御救い下さる仏様として、古来より多くの信仰を集めている。その姿は遠くインドのグプタ王朝の影響を受け、端麗で若さの中に漂うばかりの気品をもち、まさに「祈りが昇華していく崇高な御姿」という言葉どおりの美しさをもっている。
また、四天王像は正応二年(一二八九)に京佛師の隆賢と定秀によって制作され、彩色は永仁四年(一二九六)に興福寺住の絵師観舜と有曜によって施された。目には玉眼をはめ、顔の色は中国古来の四方四神の思想に基づき、東=青龍=持国天、南=朱雀=増長天西=白虎=廣目天、北=玄武=多聞天に色分けされている。

大講堂

大講堂は、正面41m、奥行20m、高さ約17mの建物です。2003年に復興されました。

堂内には弥勒三尊像が安置され、国宝の仏足石・仏足跡歌碑もあります。

大講堂緣起

大講堂は、平成十五年(二〇〇三)の複興。裳階付の薬師寺独自の様式である。幅四十一米、奥行二十米、高さは十七米あり、伽藍最大の建造物である。基本設計は西岡常一棟梁によるもので伝統工法による復元建築でありながら、現在の建築基準法に合わせ現代の技法も取り入れられている。
大講堂が大規模なのは古代伽藍の通則で、これは南都仏教が教学を重んじ、講堂に大勢の学僧が参集して経論を講讃することに由来する。特に薬師寺では、天長七年(八三〇)に南京三会の一つである最開会の道場となり、勅使を迎えた法会が毎年盛大に営まれていた。
大講堂の焼亡と共に最勝会も途絶えていたが平成十五年の大講堂復興に伴い再興されている。
大講堂の本尊は弥勒三尊(重文・奈良時代)。基壇には四天王と阿僧伽・伐蘇畔度をまつる。
後堂に祀られている仏足石(国宝・奈良時代)は釈尊の足跡を石に刻んだものであり、インド鹿野苑より唐・長安を経て、遣唐使により平城京へ伝えられ造立されたとされる。また、仏足跡歌碑(国室・奈良時代)は万葉仮名による仏足跡讃歌がまれており、国文学の上でも大変貴重なものである。
大講堂復典の慶賛として、文化勲章受章者である彫家、中村晋也氏の手により平成十五年、釈迦十大弟子が仏足石の両側に安置された。

玄奘三蔵院伽藍

玄奘三蔵は、唐の時代にインドへ赴き仏教経典を求めた僧で、西遊記の三蔵法師のモデルとしても知られています。

薬師寺を中心とする法相宗の祖師でもあります。1991年に建立され、玄奘三蔵の舎利を祀っています。