斎場御嶽の歴史と見どころは?(沖縄県南城市)[世界遺産]

この記事は約8分で読めます。
記事内に広告が含まれています。

世界遺産の各グスクもそうなのですが、斎場御嶽も高台にあります。てっきり海沿いにあるものだと思っていました。

車で坂道を上っていくと、斎場御嶽券売所が見えます。ここで入場券を購入し、入り口まで約500mの坂道を上っていきます。

「斎場(せーふぁ)」は「霊威の高い聖なる場所」「最高位」の意味。

「御嶽(うたき)」は南西諸島に広く分布している「聖地」の総称。

そのため、斎場御嶽は「最も格の高い聖地」という意味になります。

沖縄本島で最も神聖な場所になりますので、車が聖地のすぐ近くまで行けないようにしているのは当然だと思います。

宿泊旅行なら旅行サイトを利用するのが良いと思います。下記をご参考になさってください。

世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成要素

2000年11月30日、日本で11件目の世界遺産として登録されました。

斎場御嶽とは

御嶽

「御嶽」は、本土の「鎮守の森」に該当し、沖縄に900カ所ほどあると言われています。

なぜ「斎場(せーふぁ)」と呼ばれるようになったかは諸説あります。

かつて「サイハバル」と呼ばれ、そこから「せーふぁ」になったともいう説があります。

そして、「斎場」は清める場所という意味を持つことから、この文字が充てられたという説があります。

なお、「御嶽」には神殿などはありません。

七御嶽

斎場御嶽は琉球の祖神アマミキヨが国始めに作った七御嶽のひとつです。

1429年から1879まで450年間続いた琉球王国時代、国家神事の時に神の島である久高島から聖なる白砂を運び入れ、白砂で全体に敷きつめました。

七御嶽

  1. 安須森御嶽(あすむぃうたき):天孫降臨の地(国頭村辺土)
  2. クボウ御嶽:(今帰仁村今帰仁城内)
  3. 斎場御嶽(せーふぁうたき):最高位御嶽(南城市知念)⇐ここ
  4. 薮薩御嶽(やぶさつうたき): 森の全てが聖域(南城市玉城)
  5. 雨粒天次御嶽(あまつづてんつぎうたき): ニライカナイへ通ずる本丸門(南城市玉城、玉城城内)
  6. クボー御嶽(くぼーうたき):久高島の最重要御嶽(南城市知念(久高島))
  7. 首里真玉森御嶽(しゅいまだむいうたき): 天孫降臨の地(首里城内)

御新下り

斎場御嶽では、琉球王国の最高神女(のろ)である聞得大君(きこえおおきみ)の創造神との契りとなる就任儀式「御新下り(おあらおり)」が執り行われました。

首里城から多くの神女を従え、途中何ヶ所かの御嶽に祈りを捧げながら訪れました。

首里城から斎場御嶽まで、その日に到着しなければならなかったとか…。いやぁ、大変です。

東御廻り

斎場御嶽は、現在でも「東御廻り(あがりうまーい)」の参拝地として知られています。

首里城を中心に、大里・佐敷・知念・玉城のそれぞれの間切(琉球王国時代の行政区分)を東四間切、または東方(あがりかた)と呼びました。そのため、知念・玉城の拝所巡礼が東廻りと呼ばれます。

東御廻りは、琉球民族の祖といわれるアマミキヨ族が渡来し、住みついたと伝えられる知念・玉城の聖地を巡拝する行事です。

琉球王国では麦の穂が出る旧暦2月には久高島へ行幸し、稲の穂が出る旧暦4月には知念、玉城の御嶽を巡ったと言われます。

久高島は麦の発祥地とされ、知念のウファカルと玉城の受水走水(うきんじゅはいんじゅ)は米の発祥地とされ、国王・聞得大君が参詣しました。これが「東御廻り」の原型とされます。

王国の繁栄と五穀豊穣を祈願する行事だったと考えられています。

久高島

斎場御嶽の東に位置する小さな島です。

太陽が昇る東側には、琉球誕生の神話にまつわる場所が数多くあります。

久高島は、琉球の大地をつくり、人々を生み出したとされる創世神・アマミキヨが降り立った場所とされます。

島の土地は神様からお借りしているものと考えられているため、現在でも私有が認められていません。

五穀発祥の地、神の島といわれています。

斎場御嶽には久高島からの霊力が集まると考えられ、琉球随一の聖域として崇められていました。

斎場御嶽の見どころ

斎場御嶽には重要な6つの拝所があります

6つの拝所の中には、首里城内の部屋と同じ名前の拝所もあり、国家との関わりの深さを示しています。

斎場御嶽への参道

斎場御嶽への参道

この参道は、琉球王国時代の頃に行われた国王による聖地巡拝の儀礼である「「東御廻り」の際、待垣泊から斎場御嶽へ向かう道として使用されたといわれています。参道の中腹にはウローカーという井泉があり、 そこで禊を行ったのちに、斎場御嶽の入りロである御門ロへと向かいました。

御門ロへと至る参道は坂道となっており、 坂道を歩きやすくするために急斜面の部分には琉球石灰岩を用いた階段を造っていました。 道幅は、国王巡拝に使用するためか、2.7m程と幅広な造りとなっていましたが、太平洋戦争中に陣地として使用したことや土砂崩れによる被害のため、現在その様相は大きく異なっています。

斎場御嶽への参道の案内板

久高島遥拝所

琉球王国の絶対的な存在である国王はまさに太陽であり、その太陽のあがる方向にある久高島は、東方楽生ニライカナイへの「お通し(遥拝)」所として沖縄各地で崇様されています。

久高島遥拝所の案内板

御門口(うじょうぐち)

斎場御嶽の入口が御門口(うじょうぐち)です。

男子禁制とされており、御門口からは国王であっても女装に着替えていたと伝えられています。

もしくは、国王は御門口の手前に置かれた6つの香炉がこの先にある6つの拝所の代わりとされ、国王をはじめとした男性は香炉に向かって祈りを捧げました。

御門口 (うじょうぐち)

斎場御嶽の入口で、神社でいえば拝殿にあたる所です。琉球最高の御嶽ゆえに、ここから入場できるのは王府関係者に限られていました。右側には、御嶽内にある六つの拝所を示す香炉が置かれ一般の人々はここで御嶽の中に向かって拝みました。

御門口 (うじょうぐち)の案内板

大庫理(うふぐーい) 最初の拝所

「御門口」から石畳の参道を登っていくと、最初の拝所である「大庫理(うふぐーい)」に着きます。

大広間の意味を持つ場所で、聞得大君の就任式が行われました。

前面には石畳の敷かれた祈りの場「うなー」があります。

大庫理 (うふぐーい)

首里城正殿の二階は大庫理と呼ばれ、祭祀的な機能を持つ格式の高い場所です。聞得大君のお新下り儀式での「お名付け(霊威づけ)」儀礼が、首里城と同じ名前を持つこの場所でとり行われたのは、 その名にふさわしいことと言えましょう。前面にあるぜん敷きの広間では、神女たちが聞得大君を祝福し、琉球王国の繁栄を祈りました。

大庫理 (うふぐーい)の案内板

寄満(ゆいんち) 2番目の拝所

寄満という言葉は、王府用語で台所を意味します。

貿易が盛んだった当時の琉球王国に、世界中から数々の交易品が寄せられ、満ちた交易品の数々が集まったことを表しています。

「寄せて満ちる」場所というわけです。

寄満(ゆいんち)

寄満とは首里城内にある建物の名前で、国王のために食事を作る厨房を指します。 当時、ここには国内外からの海幸 山幸が集まりました。それが、「豊穣の寄り満つる所」と理解されていったのでしょう。同じ名前を持つ斎場御嶽のこの場所には、第二次世界大戦前まで、その年の吉兆を占う馬の形をした石(うまぐゎーいし)が置かれていました。

寄満(ゆいんち)の案内板

シキヨダユルアマガヌビーの壺とアマダユルアシカヌビーの壺 3番目と4番目の拝所

奥がシキヨダユルアマガヌビーの壺。手前がアマダユルアシカヌビーの壺です。

2本の鍾乳石から滴り落ちる水は「聖なる水」とされました。「御新下り」などに使用されていました。

  • 「シキヨダユルアマガヌビー」の「シキヨ」とはトウヅルモドキのこと
  • 「ダユル」は「伝わる」という意味
  • 「アマ」は空
  • 「ヌビー」とは美しい水
  • 「アシカヌビー」の「アシカ」とは、チョウジという植物の一種

三庫理(さんぐーい)、チョウノハナ 5番目と6番目の拝所

現在は入れませんが、三角形の岩の間を先にある小さな空間が、5番目の拝所の三庫理(さんぐーい)です。

三庫理は2枚の巨岩が寄りかかってできています。

三庫理の隣にあるのは、6つ目の拝所チョウノハナになります。ここに置かれた15個の香炉は、聞得大君が15代続いたという証です。

今でも祈りを捧げる人が訪れることから、香炉は全て往時のものを使用しています。

石畳は2000年に斎場御嶽が世界遺産に登録された際に敷き直されましたが、その際に、地下から金の勾玉3個を含む多数の鎮め物が発見されました。

三角岩

自然岩や洞穴に囲まれたこの場所には、いくつもの拝所が集まっています。正面に見える三角形の空間の突き当たりが三庫理(さんぐーい)、右側がチョウノハナの拝所で、いずれも首里城内にある場所と同じ名前を持っています。また、左側からは太平洋と久高島が遠望できます。

さて、三角岩の右側には、「貴婦人様御休み所」と二本の鍾乳石が見えます。滴り落ちる水はその下に置かれた壷に受けられ、それぞれが中城御殿(国王の世子)と聞得大君御殿の吉兆を占うとともに、お正月の若水とりの儀式にも使われる霊水でした。

「斎場御嶽出土品(国指定重要文化財) 」

斎場御嶽から出土した様々な資料の中でも、特に注目されたのが金製を含む勾玉や、中国青磁器・ 貨を組み合わせた一括資料でした。御嶽という聖地の中の、さらに気高い場所より発見されたこの資料は、国の重要文化財に指定されています。

三角岩の案内板

岩は2枚に見えますが、実際は3つに分かれています。

そして、この岩はサンゴからできているそうです。サンゴということは、かつてこの場所が海だったことを示しています。

沖縄本島は北と南とで土の性質が異なっており、育つ植物が違うようです。北で見られるリュウキュウアカマツは南では自生しないようです。

場所など

所在地: 〒901-1511 沖縄県南城市知念久手堅539

タイトルとURLをコピーしました