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首里城の訪城記・園比屋武御獄石門の訪問記-歴史と見どころは?(沖縄県那覇市)[世界遺産]

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この日は勝連城、中城城跡、首里城の順で巡りました。

首里城周辺での食事に時間がかかってしまい、玉陵(たまうどぅん)を訪ねることができませんでした。

守礼門のすぐそばに駐車場があります。そこに車を停めて首里城見学へ向かうのが良いと思います。

周辺は比較的なだらかなのですが、海抜約130メートルの小高い丘にあります。下から車で登ってくると、意外と急な坂道を上ることになります。

ギリシアのアテナイのアクロポリスが海抜約156mの石灰台地にありますが、何となく似ているように思ってしまいました。

宿泊旅行なら旅行サイトを利用するのが良いと思います。下記をご参考になさってください。
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世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成要素

2000年11月30日、日本で11件目の世界遺産として登録されました。

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園比屋武御嶽石門[世界遺産]

園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)は王家の拝所として使用されました。

扁額から1519年(尚真王(しょうしんおう)代)に建てられたことが分かっています。

八重山の竹富島出身の西塘(にしとう)という役人が建てたと伝えられています。

門の形ですが、人が通る門ではなく、琉球国王が各地で巡礼に行く際に安全祈願をした拝所です。

奥には琉球の信仰における聖域である「御嶽」と呼ばれる森が広がっています。

第二尚氏時代の琉球神道における最高神女(ノロ)である聞得大君(きこえおおぎみ、きこえのおおきみ、チフィジン)とも深い関係があります。

聞得大君が就任する時に最初に拝礼し、沖縄本島最大の聖地である斎場御嶽(せーふぁうたき)での儀式「御新下り(うあらうり)」の出発地点にもなっていました。

首里城と琉球王国の歴史

首里城

首里城は那覇にあるグスクで、別名「御城(うぐしく)」と呼ばれます。

今の首里城のある場所には、13世紀末から14世紀には城があったと考えられていますが、第二尚氏王統時代(1469年から1879年)に大きく拡大しました。

首里城の儀式用の空間は、北京の紫禁城をモデルに設計されています。

最も高いところで海抜約130メートルです。

首里城には当初主要な廓が1つしかありませんでした。

防衛用の郭が追加されたのは、16世紀中頃です。

城壁は、3メートルの厚さの石灰岩を6〜15メートルの高さに積み上げて作られています。

最盛期には首里城に13の門がありました。そのうち4つの門は、中国の様式です。

首里城は小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、その中に多くの施設が建てられている。いくつもの広場を持ち、また信仰上の聖地も存在する。これらの特徴は、首里城に限られたものではなく、グスクと呼ばれる沖縄の城に共通する特徴であった。他のグスクは首里城との競争に敗れ滅んでしまったが、首里城はグスクの特徴を保持しながら新たな発展を遂げたのである。

首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成している。正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西を正面としている。西を正面とする点は首里城の持つ特徴の一つである。中国や日本との長い交流の歴史があったため、首里城は随所に中国や日本の建築文化の影響を受けている。正殿や南殿、北殿はその代表的な例である。

首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもあった。また、各地に配置された神女(しんじょ)たちを通じて、王国祭祀(さいし)を運営する宗教上のネットワークの拠点でもあった。さらに、首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍していた。首里城は文化芸術の中心でもあったのである。

1879年(明治12)春、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われた。1930年代には大規模な修理が行われたが、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼した。戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなったが、大学移転後に復元事業が推進され現在に及んでいる。復元された首里城は、18世紀以降をモデルとしている。2000年12月には、首里城跡が世界遺産に登録された。

https://oki-park.jp/shurijo/about/

グスク

グスク(城)は、12世紀から16世紀までに発達しました。

グスクのほとんどは歴史史料が残っていません。

そのため、建設や用途に関しては多くの謎が残っています。

グスクには城としての機能と聖地としての機能の両面がありました。

城壁は石灰岩で、木造構造物はほとんど残っていませんが、考古学や歴史学の研究によって解明されてきています。

特徴的なのは城壁です。

本土の城壁は直線的な構造をしていますが、グスクは波打った曲線的になっています。

また、グスクには櫓がありませんでした。

琉球王国

14世紀。琉球は、多くの独立した武将が率いる体制から、3つの国に分割された三山時代に移行します。

1429年に尚巴志(しょうはし)が「南山・中山・北山」の3つに分かれていた国を統一して第一尚氏王統が始まります。

第一尚氏王統の最後の王は尚徳(1441–1469)です。

1469年に農夫出身の金丸(かなまる)がクーデターを起こします。

金丸は尚王家を継承して尚円(しょうえん)(1415–1476)と名乗りました。

尚巴志からの王朝を第一尚氏王統、尚円王からの王朝を第二尚氏王統として区別します。

第二尚氏王統の3代目王・尚真(1465–1526)の時に、首里城の拡張と美化を進めました。

第二尚氏王統は19代、約400年に渡って続きます。

1609年に薩摩藩が琉球王国に侵攻し、以後270年間薩摩藩の支配下となります。

一方で、中国にも属し、徳川幕府にも朝貢する国として琉球王国が存続します。

1879年、明治維新後の日本政府は琉球王国に侵攻します。

第二尚氏王統第19代の国王・尚泰(しょうたい)は東京居住を命じられ、琉球王国は滅亡します。

琉球王国とは、今から約570年前(1429)に成立し、約120年前(1879)までの間、約450年間にわたり、日本の南西諸島に存在した王制の国のことである。

北は奄美諸島から南は八重山列島までの琉球諸島には、約3万2千年前から人類が住んでいたことがわかっている。琉球諸島には、先史時代を経て、日本の鎌倉時代に当たる12世紀頃から一定の政治的勢力が現れはじめた。各地に「按司(あじ)」とよばれる豪族が現れ、彼らが互いに抗争と和解を繰り返しながら次第に整理・淘汰された。やがて、1429年尚巴志(しょうはし)が主要な按司を統括し、はじめて統一権力を確立した。これが尚家(しょうけ)を頂点とする琉球王国の始まりである。

その後、琉球では独自の国家的な一体化が進み、中国をはじめ日本、朝鮮、東南アジア諸国との外交・貿易を通して海洋王国へと発展してきた。首里城はその海洋王国の政治・経済・文化の中心であった。

琉球王国の歴史の中では、一度だけ大きな政権交代があった。統一王朝が成立してから約40年後の1469年、伊是名島(いぜなじま)の農夫出身の金丸(かなまる)がクーデターにより政権を奪取し新王朝を開いたのである。金丸は前例に従い、また中国皇帝との関係にも配慮して尚王家を継承し、尚円王(しょうえんおう)と名乗った。このため、琉球王国の歴史では、この政権交代以前の王朝を「第一尚氏王統」、それ以後を「第二尚氏王統」と呼んでいる。

この第二尚氏王統は、初代国王尚円(しょうえん)から数えて19代目の国王の尚泰(しょうたい)時代まで(約400年)続いた。その間、1609年に日本の薩摩藩が3000名の軍勢をもって琉球に侵攻し首里城を占拠した。それ以後270年間にわたり琉球王国の表向きは中国の支配下にありながら、内実は薩摩と徳川幕府の従属国であるという微妙な国際関係の中で存続していた。しかし、やがて日本の明治維新により成立した日本政府は、1879年(明治12)軍隊を派遣し首里城から国王尚泰(しょうたい)を追放し沖縄県の設置を宣言した。ここにおいて、琉球王国は滅亡した。

https://oki-park.jp/shurijo/about/186

首里城[世界遺産]の見どころ

守礼門

首里城といえば、この守礼門の写真が有名です。

特徴的な門構えで、美しい門です。

「守礼(しゅれい)」とは「礼節を守る」という意味です。

扁額には「守礼之邦(しゅれいのくに)」と書かれています。

「琉球は礼節を重んずる国である」という意味です。

守礼門の手前、坂を下り信号を渡って、玉陵近く、首里高校のあたりに、もう一つの門「中山門」がありました。

1908年に老朽化を理由に取り壊されました。

中山門は下の綾門(あやじょう)、守礼門は上の綾門と呼ばれていたそうです。

そして、二つの綾門を結ぶ道は、「綾門大道(あやじょううふみち)」と呼ばれていました。

歓会門(かんかいもん)

城郭への第一の正門です。

「歓会(かんかい)」とは歓迎するという意味です。

中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」を歓迎するという意味でこの名が付けられました。

首里城は外郭と内郭の二重構造です。

歓会門は外郭の最初の門になります。

別名「あまえ御門(あまえうじょう)」。「あまえ」とは琉球の古語で、「喜ばしいこと」を意味しています。

創建は1477~1500年頃(尚真王代)です。

門の両側にはシーサーがあります。

瑞泉門(ずいせんもん)

「瑞泉(ずいせん)」は「立派でめでたい泉」という意味です。

第二の門で、別名「ひかわ御門(うじょう)」。1470年頃に建てられました。

門の手前右側に「龍樋(りゅうひ)」と呼ばれる湧水があり、それにちなんで名付けられました。

漏刻門(ろうこくもん)

「漏刻(ろうこく)」は中国語で「水時計」の意味です。

第三の門で、別名「かご居せ御門(うじょう)」。15世紀ころに建てられました。

身分の高い役人が駕籠から下りた場所です。

漏刻門

鍋漏刻とは、中国語で水時計という意味です。この門の上の箱の中に水で時間をはかる水槽(水時計)が設置されていました。門をすぎた広場には日時計があり、その二つで時刻をはかり、太鼓をたたいて時をしらせました。

別名「かご居せ御門」ともいいます。機能で登城することを許されていた身分の高い役人も国王に敬意を表しこの門で駕籠から下りたということからそのように呼ばれました。

創建は15世紀頃。老朽化のため昭和初期には撤去されていたものを1992(平成4)年に復元しました。

漏刻門の案内板

広福門(こうふくもん)

「広福(こうふく)」は、「福を行き渡らせる」という意味です。

第四の門で、別名「長御門(ながうじょう)」。創建年は不明です。

首里森御嶽(すいむいうたき)

「首里森御嶽(すいむいうたき)」は城壁の手前にある礼拝所です。

「琉球開闢神話」で、神が造られた聖地とされます。

城内には「十嶽(とたけ)」と呼ばれる10ヶ所の礼拝所があったといわれています。

首里森御嶽

首里森とは首里城の別称で、御嶽とは沖縄の聖地または拝所のことです。琉球の神話では、この御嶽は神が造った聖地であり、首里城内でもっとも格式の高い拝所の一つです。城内にはここをふくめて「十嶽」と呼ばれる10ヶ所の拝所があったとされています。

国王が城外の寺社に出かけるときにこの御嶽で祈りをささげ、神女たちが多くの儀礼を行いました。

石積内の植物はガジュマルやクロッグです。1997(平成9)年に復元されました。

首里森御嶽の案内板

正殿

2019年10月の大規模な火災で正殿が焼失しました。

2026年に再建の予定です。

正殿は、中国の皇帝の居城・紫禁城を見本としていると言われます。

龍の装飾が多く見られますが、龍は権力者の象徴として紫禁城でも多く見られました。

ぶどうとリスの文様も中国でよく見られます。

実がたくさん実るぶどうと繁殖力が強いリスにあやかって、王家の繁栄がいつまでも続いていくようにとの願いが込められています。

世誇殿(よほこりでん)

淑順門(しゅくじゅんもん)

淑順門

淑順門は、国王やその家族が暮らす番と呼ばれる場所への表門です。

琉球語の古称は「みもの御所」「うなか御門」です。

建物の創建年は不明とされています。

門の造りは櫓門形式・入母屋造・本瓦葺となっています。

現在の建物は、遺構・古写真・古地図等の関連根拠情報に基づいて復元し、櫓の上塗は古文書を参考に旧日久志間切(名護市と東村の一部)で採取された弁柄を使用しています。

淑順門の案内板

久慶門(きゅうけいもん)

「久慶門(きゅうけいもん)」は別名「ほこり御門(うじょう)」。尚真王代の1477~1526年に建てられました。

歓会門が正門で、久慶門は通用門でした。主に女性が利用したといわれています。

寒水川樋川(すんがーひーじゃー)

寒水川樋川

瑞泉門前の龍樋とならんで首里城内の重要な水源でした。生活用水のほかに防火用水としても利用されたといわれています。

あふれ出た水は地中のみでを通り、久慶門の外側の左右から再び地中に入り、門の向かい側にある円鑑池に抜けました。円鑑池が満水になるとさらに龍潭に注ぎました。このことから首里城の排水処理の一端を知ることができます。

寒水川樋川の案内板

公式HPと場所など

首里城公園
首里城は、琉球王国の幾多の興亡を伝える歴史の証人。琉球の島々を治め、中国、日本、朝鮮、東南アジアの国々と外交、貿易を展開した首里王府の司令塔として、王とその家族等が住み、華麗な王朝文化に彩られた空間でした。

所在地: 〒903-0815 沖縄県那覇市首里金城町1-2