司馬遼太郎の「街道をゆく 壱岐・対馬の道」第13巻を読んだ感想とあらすじ

この記事は約5分で読めます。
記事内に広告が含まれています。
スポンサーリンク

覚書/感想/コメント

この巻は壱岐と対馬だけを扱っている。

「古事記」の冒頭の国生みの話。「次に伊伎島(壱岐)を生みき」「次に津島(対馬)を生みき」とあるように、上代から二つの島が認識されていたようだ。

弥生式農耕がひらけたことにより、倭国が成立し、朝鮮半島からの鉄器の到来により、農耕地が拡大した。鉄の国産は六世紀からだが、この国産を担ったのは、南朝鮮を禿げ山にしてしまった製鉄の集団ではないかと司馬氏は踏んでいる。

壱岐・対馬はこの輸入鉄の海上輸送路にあり、これが神話や伝承での不可思議な相貌を帯びさせる。

上代に卜占というのがあった。大和の王朝は壱岐・対馬から専門の神道者を招いていた。この二島に集中していたからである。

卜占術は動物の骨を焼いてそのひびの割れ方から吉凶を占うものである。中国の殷王朝の頃にはすでにあった。この卜占の風習は漢民族固有のものではないそうだ。むしろ、北アジアの遊牧民族のものであるようだ。結局、中国でも卜占は殷王朝だけで廃れている。

遊牧民族が信仰していたのは天であった。そして、骨卜と天への信仰は一つのセットになっていたそうだ。日本にやってきた卜占もこの天の思想を受け継いでいる。古神道に天つ神があらわれるのは、この要素を除いては考えられないそうだ。

朝鮮半島で新羅が半島統一に乗り出している頃、日本には百済からの渡来人がひしめいており、救援の軍を出すことになる。これが白村江の戦いの大敗へとつながる。

この後、日本は新羅との外交関係を復活させるための使者を出す。遣新羅使である。この中に雪連宅麿というのがいた。雪とは壱岐のことである。イキに壱岐の漢字をあてて定着するのには時間がかかったそうだ。

江戸時代。一般的には時代が下るに連れ、年貢が上がっていった。初期は四公六民だった。幕府直轄の天領はこれをほぼ守り、他の地域に比べてよかったようだ。壱岐の場合、搾られるだけ搾られたらしい。

地割の制度というのがあり、原則として土地の所有主が藩であったというものである。江戸時代において土地の私有は農民、町民であり、大名や武士が私有することがなかったのが、ヨーロッパなどとの大きな違いだが、平戸藩では土地公有の思想があったようだ。

豆腐は漢の高祖劉邦の孫・劉安が発明したといわれているそうだ。とても固いもののようだ。

壱岐には河合曾良の墓がある。松尾芭蕉の随順者として知られる。秘書の才能があり、芭蕉との奥の細道の旅の時も、その才能を遺憾なく発揮した。

李氏朝鮮は徳川幕府に好意的であった。というのも、豊臣政権が朝鮮に対してひどすぎたからであり、一方で家康は幸いなことに朝鮮へ兵を出していなかったこともある。

朝鮮出兵で焼物に関する職人が多く日本に連れられ、各地の磁器の祖となる。

対馬は室町時代に守護大名の宗氏が治め、江戸時代でも十万石格の大名となる。

雨森芳洲という儒者がいた。江戸で木下順庵につき、同門に新井白石、室鳩巣などがいる。中国語に朝鮮語が堪能だった。この芳洲が対馬で、対朝鮮外交の事務官として活躍した。

韓国の大統領だった李承晩が対馬は朝鮮領だといったことがある。かなり本気だったようで、米国政府に交渉していた。

当時、日本はアメリカの占領下にあったから、領土権はアメリカに持ち込まれたのだ。その時の様子がすでに公開されているアメリカの機密文書に書かれているそうだ。

倭寇に苦しむ朝鮮は対馬倭寇対策として米を送り、懐柔しようとする。対馬の宗氏に対して米豆二百石を与えることにし、条件付の貿易も認める。

対馬は田畑となる土地が少ない。そのため、飢饉的な状況におかれると、朝鮮半島に出て食料などを奪う倭寇と化していたようだ。

朝鮮は本場中国以上に儒教国家であった。そのため、対外意識において、中国以外の国を野蛮人として見なす傾向があったようだ。朝鮮の公文書では日本の室町大名や小名は、倭酋とか巨酋とか表現されている。

こうした国家なので、野蛮な対馬倭寇への対策として対馬の宗氏へ二百石を与えることにしたときも、何らかの名目が必要となったのだろう。対馬は李氏朝鮮にとって厄介な隣人だったのだ。

さて、アメリカの反応だが、対馬はきわめて長期間にわたり日本領土であったと、簡単に答え問題を終了させているそうだ。

古朝鮮も古日本同様に固有の文字を持っていなかった。漢文の流入により、それがあまりにも鮮やかすぎたがゆえに、古朝鮮語がどのようなものだったが、わからなくなってしまったそうだ。

司馬遼太郎氏がこれを書いた時期から時を経て、現在でも状況は変らないのだろうか?一度失われた文化や文明をトレースすることの難しさを感じさせる。これはむやみに固有の地名を変えることの愚かしさをも警鐘している。

社そのものが神という思想は、古代東アジアには普遍的に広がっていたようで、古代中国にもあったことが文献にも出ている。つまり、古代の神社は日本の独占的なものではなかったということである。独自のものと触れ回ったのは、明治の役人達であった。

スポンサーリンク

本書について

司馬遼太郎
街道をゆく13
壱岐・対馬の道
朝日文庫
約二四五頁

目次

壱岐・対馬の道
 対馬の人
 壱岐の卜部
 唐人神
 宅麿のこと
 壱岐の田原
 郷ノ浦
 豆腐譚
 曾良の墓
 曾祖父の流刑地
 神皇寺跡の秘仏
 風涛
 志賀の荒雄
 厳原
 国昌寺
 対馬の「所属」
 雨森芳洲
 告身
 溺谷
 祭天の古俗
 巨祭島
 山ぶどう
 佐護の野
 赤い米
 千俵蒔山
 佐須奈の浦

タイトルとURLをコピーしました