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司馬遼太郎の「街道をゆく 長州路ほか」第1巻を読んだ感想とあらすじ(面白い!)

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覚書/感想/コメント

近江から始まる司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズ

湖西の道

静岡県の西半分を指す遠江は「遠つ淡海」の縮め語であり、同様に近江とは「近つ淡海」の縮め語である。この場合、遠つ淡海は浜名湖、近つ淡海とは琵琶湖を指す。もっとも、時代によっては遠江はもっと大和に近い琵琶湖の北の余呉湖や賤ヶ岳あたりを指していた時もあったらしい。

この近江を選んだのは、「朝鮮人などばかばかしい」という、明治後できあがった日本人のわるい癖に水をかけたくて、と書いている。朝鮮語と日本語の類似性を指摘したのは新井白石だそうだ。

近江に、安曇(あど)という場所がある。普通はアズミと読むが、この安曇(あど)は古代の種族名。信州の安曇野を除いて、この安曇(あど)が住んだのは海岸沿いだったようである。安曇は海積の変化であり、厚海、渥美、安積、熱海などのように書く。

私などは、そもそも古代にこうした種族がいたことを知らず、それを知り得ただけでも、十分に面白い。

この後に書かれている信長の朽木越えの話や、足利十二代将軍の足利義晴の話なども面白い。

竹内街道

日本語学者のロジャ・メイチン氏とゆく。

京都の下鴨、上賀茂。古代鴨族が住んでいたと思わしい地域で、近江では蒲生の字を当てている。そして、鴨族とはおそらくは出雲族のことだろう。

うーん、ここでもこういう種族がいたのかと、うなってしまった。

そして、旅は大和の石上(いそのかみ)神宮へ。古代大和王朝の武器庫であったと想像され、日本であるいは最も古い神社の一つ。

古代の神道は後世のような理屈や装飾はなく、神の静まる場所に入れば魂振りを感ずるというだけのものだった。だから、石上神宮には白川帝から八百何十年の間、拝殿のみが存在し、本殿がなかった。

素朴な信仰のありかたと、本来の日本の信仰の様子が伝えられている場所が現存するというのは、とても貴重なものだと思う。

ここに神剣や神宝を埋めさせた崇神天皇。二世紀から三世紀にかけて存在した大和の王であるらしい。勢力範囲が大和以外に及んだ最初の王かもしれない。

この崇神天皇と、大和にいた出雲族の一派カモ・グループとミワ・グループとの関係を述べた箇所も面白い。

甲州街道

江戸に城を最初に築いた太田道灌。武人としてよりは歌人として高名であった。

武蔵といえば、一国おしなべて野なりといった状況で、一大草原だったようだ。五、六百年前の話である。

米はあまりとれず、耕作に適していたのは、甲州街道の八王子付近のようだ。だから、律令の国府も府中にあり、国分寺もそのあたりにあった。

なるほどいわれてみればその通りであり、昔は府中の方が中心地であったのだ。今日の東京都は逆なのが面白い。そして、この武蔵のくにに入植してきた百斉人などの人々が耕作を発展させていく。坂東で発展した騎馬文化なども渡来人の影響であるというのも頷ける話である。

この章で最も面白かったのは、海に面した土地に意図的に進出して大城郭を作った最初の人は秀吉だったというところである。

この秀吉が家康に江戸という場所を提案したのも、そして、これが今日の東京となったのも興味がそそられた。

実は一番興味がそそられたのは、それぞれ、秀吉と家康が開発されるまでは忘れ去られていた場所であり、両雄がいてこそ初めて発展し得た都市ということである。つまり、大坂と東京が歴史的にはそれほど大差のないということである。

ほかにも八王子千人同心の成立事情を語った箇所もあり、興味深い。この八王子千日同心の家系から、十辺舎一九が出、江戸研究家の三田村鳶魚も出ているそうだ。

葛城みち

雄略天皇の頃(古墳時代から大和王権の成立まで)、葛城一帯にあった国が滅ぼされた。この時に滅ぼされた一言主の神社が高知県に現存しているそうだ。高知市の一宮にある都佐神社(土佐神社)がそれである。

この葛城一帯にいたのが「鴨」族だった。古神道を奉じ、よきシャーマンを出した。鴨族は正しくは鴨積と書かねばならない。積は種族をさす。この鴨族出身の知名度のあるのは、古くは役小角、中世では鴨長明。

奈良時代になると、仏教が入り始め、日本在来の神の地位が低下する。これをうやむやにするために神仏習合思想が生まれる。だから、伊勢の天照大神も大日如来の仮の姿ということになってしまう。しかも、日本の神はあわれなことに、神の方から仏法を聴きにいくことになる。神仏習合については、義江彰夫「神仏習合」に詳しい。

こうした記述を読むと何となく情けない気持ちになるのは私だけだろうか。輸入されたものには弱いというのは、千年以上たった現在でも同じで、こうなるともはや日本人の源資質ともいえるのだろう。

長州路

長門国、周防国が江戸時代における長州藩毛利家の版図であった。

ここで最初に語られるのが、幕末の志士。幕末の奔走家と評している人物の中でも、第一級の人物は人を斬っていない。高杉晋作も桂小五郎もそうである。同様のことを海音寺潮五郎も随筆で述べていた。

江戸時代、大阪湾から蝦夷地へ行くには太平洋航路は危険だった。難所は寄港地のない遠州灘、鹿島灘。そして三陸沖という難所がまっていたからである。だから、この東回りと呼ばれる航路は採らず、日本海航路が採られた。

この章で面白いのは、信長と秀吉を商人と評し、家康を庄屋さんと評している点であろう。

なるほど、こう考えると、前者が革新性に富み、後者が保守的というのも頷ける。そして、徳川政権の直轄領が六~八百万石といわれていたのにもかかわらず絶えず財政難で苦しみ、豊臣政権の直轄領が二百数十万石にすぎなくとも、あれだけ豊かだったのも、この違いであろう。

毛利家もこの商人の感覚に近い家であったと述べている。

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本書について

司馬遼太郎
街道をゆく1
長州路ほか
朝日文庫
約260頁

目次

湖西の道
 楽浪の志賀
 湖西の安曇人
 朽木渓谷
 朽木の興聖寺

竹内街道
 大和石上へ
 布留の里
 海柘榴市
 三輪山
 葛城山
 竹内越

甲州街道
 武蔵のくに
 甲州街道
 慶喜のこと
 小仏峠
 武州の辺疆

葛城みち
 葛城みち
 葛城の高丘
 一言主神社
 高鴨の地

長州路
 長州路
 壇ノ浦付近
 海の道
 三田尻その他
 湯田
 奇兵隊ランチ
 瑠璃光寺など
 津和野から益田へ
 吉田稔麿の家