堺屋太一の「世界を創った男 チンギス・ハン 第3巻 勝つ仕組み」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

第三巻はチンギス・ハンが漠北を統一するまでの十年足らずを描いています。その期間、チンギス・ハンの前に立ちはだかったのは盟友ジャムカでした。

二人の戦いは単なる個人的感情や氏族の立場によって生じたものではありません。目指す理想の違いから生じたのだ、というのが著者の主張です。

チンギス・ハンが「人間に差別なし、地上に境界なし」のグローバリズムを指標としたのに対して、ジャムカは「氏族秩序と褐色の大地の維持保存」のナショナリズムを指標としていたのです。

この時期のチンギス・ハンはちょうど飛躍の時期に当たっています。こうした時期というのは個人だと五、六年、企業なら十年、国家民族でもせいぜい二十年だといいます。これが断続的に三度あれば成功者になるだろうといいます。

チンギス・ハンとて例外ではなく、この飛躍の時期がそれぞれ五年間ほど三回あったそうです。その最初の一つが一二〇〇年頃から一二〇四年に至る時期なのだそうです。

  • 1199年 夏 ドルガ湖畔の戦い:トオリル・ハンの主導でナイマン族を攻める
  • 1200年 初夏 ウレン・トラスの戦い:タイチウト族を奇襲、殲滅する
  • 1200年 秋 フユル湖畔の戦い:トオリル・ハンと枢軸。タタル族ら三部族十三氏族連合軍を解体する。
  • 1201年 初め ダラン・ネムルゲスの戦い:タタルに圧勝。軍律を定める。
  • 1202年 初め コイテンの戦い:トオリル・ハンと枢軸。ジャムカを主将とする五部族大連合を撃破。タタル族消滅。
  • 1203年 夏 カラカラジトの戦い:トオリル・ハンに圧倒され敗北。
  • 1203年 秋 チェチェエル林の戦い:トオリル・ハンを撃破。ケレイト族を吸収
  • 1204年 秋 らくだヶ原の戦い:ナイマン族タヤン・ハン軍を撃破。漠北をほぼ統一。

ここでチンギス・ハンを支えた人物たちがほぼ出そろいますが、特に「四頭の駿馬」と「四匹の忠犬」はぱっと見分かりづらいので、列挙してみます。

  1. 「四頭の駿馬」 ボオルチュ、ムカリ、ボロクル、チラウン
  2. 「四匹の忠犬」 ジェルメ、スボタイ、ジュベ、クビライ

「四頭の駿馬」の方が重要度が高いようです。

さて、遊牧民と中華の対立というのはとても長い歴史を持っています。それこそ紀元前から続くものであり、チンギス・ハンの生きていた時代においても変わらないでいます。

われわれが考えるのは、中華文明の影響というのは強いということです。

堺屋太一氏は言います。

ヴェトナム、朝鮮、日本などはあらゆる面で模倣に努めています。文字も宗教も国家組織も、衣服も建築も倫理観も美意識もです。

ですが、中華と最も早く最も深く接してきた漠北の民は、何一つ取り入れることをしませんでした。よく知るが上に軽蔑してきたのです。

チンギス・ハンの帝国は文字を使い通貨を使い国家組織を持っていましたが、文字は表音文字のウイグル文字を改造したモンゴル文字、通貨の基本は不換紙幣、国家組織は地方自治と集権軍事力であり、農耕文化とは異なる独創的なものでした。

「第三巻の注釈」で書かれている中で面白かったのは「暦」の話です。

十三世紀の漠北草原には西暦や西洋風太陽暦は入っていませんでした。

使われていたのは、中国式の太陰太陽暦で、月の満ち欠けと太陽の公転を組み合わせたものであり、日本でも一八七二年(明治五年)まで使われていた暦です。

これを使用した史料というのはそれなりに分かりやすいのだそうですが、モンゴル帝国の場合イスラーム圏にも史料があり、こちらで使われているイスラーム暦(ヒジュラ暦)は完全な太陰暦なので、毎年十日ほど年の初めが繰り上がるのだそうです。イスラム暦と西暦では三十年弱で一年の差が生じます。

異なる暦を使って、同じ事件を扱っている場合の資料の読み込みの難しさを教えてくれるエピソードとして面白いものでした。

シリーズ全4作です。

  1. 世界を創った男 チンギス・ハン 第1巻 絶対現在
  2. 世界を創った男 チンギス・ハン 第2巻 変化の胎動
  3. 世界を創った男 チンギス・ハン 第3巻 勝つ仕組み 本書
  4. 世界を創った男 チンギス・ハン 第4巻 天尽地果
本の紹介

チンギス・ハンを主人公にした小説です。

  1. 井上靖「蒼き狼」

モンゴル史の入門書としては次が参考になります。

  1. 杉山正明「モンゴル帝国の興亡」
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内容/あらすじ/ネタバレ

一一九六年から九七年春にかけて、ユーラシア北部の歴史は「時代が変える時期」に当たっていた。

史上の英雄の生まれ育った家族家庭をみると、チンギス・ハンの場合は貧しいながらも結束固い家族の中で育ち、親兄弟の精一杯の協力を受けてきている。

そして、チンギス・ハンの成功は、そのまわりにたまたま大天才が集まったからではなく、社会に定着していた身分制度と氏族共同体の拘束を超越した組織を創ったからに他ならない。

これへの抵抗は凄まじく、盟友ジャムカが反チンギス・ハンの大連合を組織できたのは、チンギス・ハンの目論む絶対王政が、部族長との権力と身分制度の秩序を壊すと教え諭して回ったからであった。

チンギス・ハンはモンゴル部族を率いて西へ向かうことにした。トオリル・ハンと共にナイマン族を降し、仲間に加えるのだ。ナイマン族の住む地は遙かに西の地である。大規模な移動が始まった。

移動に際してチンギス・ハンは集団を三つの千戸隊と一つの本営に作り替えた。千戸隊は十の百戸隊から成り、百戸隊は十の十戸隊から成っている。これに連帯責任制を導入した。

チンギス・ハンはチンカイを得た。鉄で巻いた車輪を作る技術に通じるほか、諸技万術に通じていた。のちのモンゴル帝国の建設運輸の長から大宰相まで上りつめたチンカイ(鎮海)の登場だった。

遊牧民といえども家族家畜を連れて遠距離を彷徨っているわけではない。大抵は数十キロから二百キロまでの区域を夏冬の季節に往来する。

それが習慣のため、差し迫った不便も危険もないのに、牧地を捨てて西方千里に移動するというチンギス・ハンの提案は皆を驚かせることになった。

だが、十二世紀末。漠北では人口増加が急激であり、混み合っているという現実もあった。

トオリル・ハンと合流し、ナイマン族との戦いが始まった。トオリル・ハンの抜け駆けがあったが、緒戦では勝った。

戦利品はトオリル・ハンとチンギス・ハンとの山分けという約束であったが、トオリル・ハンは抱え込んで全てを公開しようとしない。

怒りを感じつつも、チンギス・ハンは通貨の銅銭を分け前として選んだ。マフムド・ヤラワチの教えに従っての選択であった。

両者はこれ以上の追撃をすることなく、撤退を始めたが、戦利品が多すぎたため進行速度が遅い。

トオリル・ハンの息子・セングンの陣中に意外な人物が現われた。ジャムカである。ジャムカは後方からナイマン族が追ってきていることを教えた。つまり逃げろと教えたのだ。

早速トオリル・ハンの集団は速度を上げた。この様子を不審に思ったチンギス・ハンはすぐに探りを入れ、ジャムカの存在と後方からの追撃を知る。そこで、トオリル・ハンの集団を抜かして先行するように指示を出した。

ナイマン族討伐戦に勝利し、タイチウト族の討伐に打って出ることになった。

タイチウト族戦は、タイチウト族の意表をつくかたちでチンギス・ハン軍が攻めたので、戦闘らしいもののない虐殺と掠奪の世界となった。

だが、肝心の族長であるタルグタイを逃した。これは兵士たちが遁走した敵主力を追いもせずに、掠奪に勤しんだせいであった。

チンギス・ハンは重要な布告を出す。「捕らえた男女や家畜、掠奪した財貨はすべて俺の前に提出せよ。全員に公正に分配する」。

これで従来の遊牧民の戦争の目的と形態が変わることになる。戦争は個人の利益追求の場から、集団の組織運営になったのだ。

この時、チンギス・ハンはジェベを得た。「四匹の忠犬」の一人に数えられる人物である。

そして、タイチウト族の壊滅と共に、臣従氏族や隷属民がどっとチンギス・ハンの配下に流れ込んだ。チンギス・ハンは今やトオリル・ハンに匹敵するほどの軍事力を得ていた。

ジャムカが三部族十三の氏族の長の説得をし、トオリル・チンギス枢軸に対抗するための連合を結成する。

この時のジャムカは日本でいうところの関ヶ原の合戦の石田三成のそれによく似ていた。結局主将が決まらないまま連合軍はトオリル・チンギス枢軸を攻撃すべく北へ進んだ。

戦いはコンギラト族の寝返りもありトオリル・チンギス枢軸の勝利で終わった。

チンギス・ハンの次の標的は、祖父代々の仇敵タタル族の撃滅である。

タタル族は衰えたとはいえ強敵である。だが、続く金朝との抗争で疲弊しており、内部統制も充分でなかった。

この戦いの前にチンギス・ハンは四頭の駿馬を招いて軍律の徹底を図る。戦士による捕獲掠奪を禁じるために、厳格な規則と厳重な監視の体制を敷くことにし、あらたな戦法の採用にも踏み込んだ。

この厳格な軍律の下でタタル戦は始まり、勝利はしたが、完全なるものではなかった。それは一族の中に軍律を破るものが出たからであった。

チンギス・ハンは一族であろうと軍律破りを許すことはしなかった。厳しい罰則を課したのだ

ジャムカは忙しく動いていた。一二〇一年の冬から夏にかけ直線距離で北海道の札幌から沖縄県の那覇ほどの距離を一度ならず往復していた。

全ては強く成りすぎたチンギス・ハンとトオリル・ハンの枢軸を倒すためである。

ジャムカはメルキト族やナイマン族、オイラト族も誘い込んで五部族二十三氏族をまとめたという。この情報はコルコスンを通じてチンギス・ハンの耳にも達した。

そうこうしているうちに一族の中からも敵へ寝返るものが出た。

チンギス・ハンとトオリル・ハンの枢軸は窮地を脱するため、金国の大濠の向こうに逃げ込んだ。このとき金国は内部的な事情により手足が出せなかったので、チンギス・ハンはその隙をついて場所を勝手に借りたのだ。そしてこの判断が勝敗を分けることになった。

この戦いでチンギス・ハンがまずしたのはコンギラト族との降伏交渉だった。そしてそっくりそのままチンギス・ハンの集団に組み込まれた。

そしてこの戦いで軍事政治集団としてのタタル族は消滅した。

トオリル・ハンも勢力を伸ばしていた。残された戦いは、トオリル・ハンとチンギス・ハンの王者の争いしかなかった。

チンギス・ハンにとっての天下の分け目の戦いは、ケレイト族トオリル・ハン集団との戦いである。

このトオリル・ハンの軍がいきなり攻め込んできて、準備のできていないチンギス・ハンはほうほうの体で逃げる羽目となる。これがカラカラジトの戦いである。現在では舞台となったカラカラジトの沙原がどこか明確でない。

これで受けた被害は大きく、チンギス・ハンの生涯の中で見ると四度目の危機だった。

だが、チンギス・ハンのもとには幸運が舞い込んだ。ハッサンが護衛と羊千匹を連れてきたのを初めとして、金朝に仕えていた契丹人将校の耶律阿海が駆けつけると、ぞくぞく帰参するものが増え、コルコスンの一座から弟・カサルの様子に関する情報を手に入れることができた。

一二〇三年秋。カラトン(現ウランバートル南部)の近郊で月見の宴が開かれていた。チンギス・ハンはそこを急襲し、ケレイト族を吸収した。

この後、ナイマン部族のタヤン集団をも撃滅し、この戦いの中でウイグル人のタタトンガを捕らえる。のちにタタトンガはウイグル文字を改造したモンゴル文字を創り、多くの法令を成文化した。

本書について

堺屋太一
世界を創った男 チンギス・ハン3 勝つ仕組み
日本経済新聞出版社 約二九五頁
モンゴル帝国 13世紀

目次

チンギス・ハンの人脈と組織
天啓人為
トオリル・チンギス枢軸
「長い目」
仇敵を討つ
枢軸vs連合
「軍律」-または本当の改革
落日のタタル
志士に蛇言あり
「総力戦」
「次」の戦
天下分け目の大合戦
耐える勇気
「大」を呑む
最後にして最初の戦い
「族」から「国」へ
第三巻の注釈

登場人物

(家族)
チンギス・ハン…キヤト族のハン
ボルテ…チンギスの妻
ホエルン…チンギスの母
ジョチ…長男
オゴデイ…三男
トルイ…四男
カサル…チンギスの次弟
ベルグテイ…異母弟
(部下)
ボオルチュ…義侠心で臣下になる。のち「四頭の駿馬」(四駿)
ムカリ…大将軍志望。のち「四駿」
ボロクル…使い番志望。のち「四駿」
チラウン…馬乳酒造りの子。のち「四駿」
ジェルメ…山の民。のち「四匹の忠犬」(四狗)
スボタイ…山の民。親衛隊長。
ジュルチデイ…先鋒隊長。ウルウト族族長。
ヤラワチ…ムスリムの経済金融に明るい少年。のちの財務長官
シギ・クトク…タタル族の遺児。チンギスの義弟。のちの最高裁長官
ナヤア…タイチウト族からの寝返り。のちの中央軍司令官
チョルマカン…隷属民出身。のちにタマチ軍団を率いる
チンカイ…ケレイト人。のちの建設運輸長官
(支援者)
ハッサン…イスラム教徒の隊商親方になる
コルコスン…ウイグル人の旅芸人。情報屋。
テプ・テンゲリ…祈祷師。ムンリクの二男で、本名はココチュ
(親族のキヤト族)
アルタン…キヤト氏族本家の家長
ダリタイ…チンギスの叔父
(他の人々)
ジャムカ…チンギスの盟友(アンダ)
トオリル・ハン…父の盟友
セングン「坊や」…トオリルの息子。
ガンボ…トオリルの末弟
タルグタイ…タイチウト族長、チンギスの仇敵
トクトア…メルキト族の氏族長、チンギスの仇敵

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