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宮城谷昌光の「王家の風日」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

中国で商(殷)から周へ王朝が移る時代。太公望が活躍した時代でもあるが、その時代に商を支えた箕子(きし)を軸にすえた小説。

この小説は、宮城谷昌光氏の「太公望」とは表裏一体の関係にある小説である。

また、作中にも登場するが、周召連合の一翼を担って周の建国に尽力した召公を扱った短編として「甘棠の人」(「俠骨記」収録)があるので、あわせて読まれると面白いだろう。

商(殷)という王朝は太陽崇拝の王朝だった。中国にも太陽信仰の時代があったということで、これは正直興味深かった。

そもそも、商では太陽が十あると考えられ、その一つ一つに名があった。甲、乙、丙、丁…現在われわれでも馴染みのある数え方である。これを王が名乗ることになるので、つまり商王は太陽王だった。

もう一つ興味深かったのは、商という王朝が祭礼を中心に政治が動いていたということである。人間が政治を行うということではなかったようなのだ。

これに対して周という王朝は人間が政治を行っていた。このこと自体が革新的なことだったと書かれていること自体に驚きを禁じ得なかった。

さて、物を動かすことで利を得る者を「商人」と言うが、それは商(殷)の人間がそうしたことを始めたから、そういわれるようになったのだという。

登場人物の一人に妲己がいる。九尾の狐の伝説に結び付けられており、日本では九尾の狐の伝説に加えて玉藻前の伝説に繋がっている。

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内容/あらすじ/ネタバレ

「商」と呼ばれる王朝がある。のちに「殷」とも呼ばれる。この王朝時代にはじめて文字を持った。

文丁王に箕子(きし)という子がいる。この箕子が遠国で政教に心を傾けている間に文丁王が崩御し、長子の羨(えん)が王位を継いだ。北方の安定は保たれ、箕子は王都で常勤することになった。

商王は羨で二十九代を数える。今まで西北に向いていた目を東南へと向けようとしていた。

この羨と箕子は相性が悪い。何のために都に来たのかと箕子は思うことがある。

箕子は羨王の三人の子を観察し、これはと目をみはったのが三男の受だった。だが、箕子は後嗣の件には一切関わるまいと決意していた。

羨王は卜ができぬと不快な顔をした。亀がないのだ。これを聞き干子(かんし)という箕子の異腹の弟が自ら亀を求めに行くと言いだした。行商人に変装し、東南の異域を巡った。

東南を押さえているのは九公という者らしい。九夷の末だという。干子は九公に会い、亀を所望した。

羨王は亀を得て、祭礼を復古した。祭祀が増えたので、祭具が必要となり、銅が欠かせなくなった。銅山の開発のために奴隷が必要となり、標的となったのは羌族だった。

羨は名に帝をかぶせ、帝乙と名乗った。箕子は狂われたかと思った。この頃、箕子の宮中での重みが増していた。

帝乙の子・受は叔父の箕子が好きである。受は知識を愛したが、それよりも愛したのは狩りである。

北の守りを固めるために箕子は邑へ戻ることになった。その箕子を干子が待ち受けていた。干子は子啓(しけい)を後嗣に推している。

邑に戻った箕子は土方(どほう)の動静を気にしていた。土方はやってくる。そうした予感がある。

果たして土方はやってきたが、一戦もせずに箕子の足下に傅いた。商に入貢するつもりはないが、箕子に従うという。

流落の父子がいる。嬴廉(えいれん)と嬴来(えいらい)である。廉は一年ほど前までは秦国の君主だった。

この父子を救ったのが受だった。父子は受に仕えることになった。

受が世子となり、帝乙が崩御した。受は紂王とも言われる。

帝乙の死を知らない一族がいる。羌の小部族だ。この部族を商の軍勢が襲った。この戦いの中から脱出した少年がいた。望という。

喪中は大臣だけで王朝を運営しなければならない。箕子はすでに入閣しており、干子も入閣している。

周という国は神怪な国である。伐っても伐っても、不死鳥のように翼を張る。周はすでに二度死んでいるはずだが、伐たれるたびに衰退するどころか、肥え太ってきている。

その周を征伐するにしても、喪の三年間は動きがとれない。

この間の牽制に箕子は召を聘命してはどうかと考えた。難しい問題である。なぜなら、天下広しといえども、昂然と商に叛旗を翻しているのは召だけなのである。

周の姫昌王が長子・伯邑考とともに入朝するという知らせに箕子は仰嘆した。

受が即位し、帝辛と名乗る。姫昌はこの時から周侯と呼ばれることになる。九公も九侯と呼ばれることになる。

九侯は干子の仲介によって来朝したが、商に従う気になったのは、費中の勧めによる。貝を通貨にするという腹案に乗ったのだ。商王朝を牛耳ることができるなら、面白い。

黎の地で受は狩りをするといった。箕子は戦慄した。黎は東方と南方への重要な場所である。

ここで狩りを兼ねた大集会が行われた。受王四年のことといわれている。

受は全ての諸侯に人質と玉を要求した。諸侯は当惑したが、これに対して受は炮烙の刑という脅しで対抗した。

盂方伯が叛いた。この討伐の前に蘇を周侯に説得させ、蘇は一人の娘を受に差し出した。妲(だつ)という。妲は妲己(だっき)と呼ばれることになる。

東方親征は帝辛十祀九月に始まり、次の年七月まで続いた。この十ヶ月の王の不在が歴史を大きく変転させるきっかけとなった。

九侯がすでに商から離反していると受は聞き驚いた。その冬、九侯と顎侯がきて、沙丘で行われた宴が彼らのこの世で最後の宴となった。
冬の間に行われた宴は俗に酒池肉林と呼ばれる。

尹佚が妲己から恨まれた。この尹佚を救い出したのは周侯たちである。だが、この周侯たちを捕吏が追いかけてきて、周侯は監禁された。

この周侯を救い出すために動き出したのが望である。望は激烈な意志の男で、徹底的な武断派でもあり、革命後の思想は愚民政策となって現われた。望は太公望と呼ばれる。

望は周侯を破獄させるのでは大義が立たないと苦心した。

周侯が捉えられていた期間は長くて四年、短ければ三年であった。

望は商を打倒するために周侯にある構想を持ちかけていた。それは周召連合である。

本書について

宮城谷昌光
王家の風日
文春文庫 約四七〇頁
殷時代 紀元前11世紀頃/殷滅亡期

目次

商王朝
箕子と干子
王子受の日日
土方の襲来
流落の父子
周への招請
西方の人
周の入貢
象牙の箸
黎の蒐
炮烙の刑
盂方討伐
酒池肉林
羑里
太公望の暗躍
虁(き)の社
死と狂と
牧野の戦
王者の国
あとがき
文庫版へのあとがき

登場人物

箕子
羨(帝乙)…商(殷)の二十九代目王
費中
子啓…帝乙の子
干子…箕子の異腹の弟
受(紂王)…帝乙の子、商の三十代目王
妲己
祖伊…受の友人
尹佚
嬴廉
嬴来…嬴廉の子
九公
顎君
姫昌…周王
伯邑考…昌の長子
発…昌の子、後の武王
鮮…昌の子、後の管の君主
旦…昌の子、後の周公旦
大顛
閎夭
太公望