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宮城谷昌光「晏子」の感想とあらすじは?

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通常、晏子といえば晏嬰を指します。

晏弱と晏嬰の親子にわたる物語ですが、主眼は晏嬰の方にあります。

晏嬰を書くために晏弱から書き始めたというのが本書です。

本書は、最期の一章のためだけに、それまでの章があると思います。

だからといって最後の章だけを読んでも、晏嬰を理解することが出来ません。

晏弱から読み始めて、晏嬰にいたって理解できるのです。

秀逸なのが、最後の場面です。

景公が晏嬰の死を知って、とるものをとらずに晏嬰邸に走り込んで、遺骸にとりすがる場面。この時の景公の台詞に晏嬰のすべてが滲み出ている気がして、身が震える思いがしました。

恐らく前半の晏弱の部分の方が面白く感じる人が多いのではないでしょうか。

それは単純に、晏弱の武勇を面白く感じているのだと思います。

合戦の場面は秀逸であり、晏弱の天才的な戦術を余すことなく表現しているのは確かです。

この武勇の面だけでなく、もう一つの欲のない晏弱を見つめたいところです。

晏弱は譜代の臣ではありません。そして、君主よりも斉という国を愛しています。

晏弱は斉の西方の国、宋の出身で、宋の公室での後継争いが尾を引いて乱となり、公子である晏弱とその一族が宋をでて斉へ亡命しました。

ですから、自分を受けていれてくれた斉という国と民に特別な愛情があるのです。

その晏弱の心というか徳というものが昇華されて受け継がれたのが晏嬰です。

晏嬰は春秋時代を通じて管仲と並び称される名宰相です。

「史記」で有名な司馬遷は、「史記」で、伯夷・叔齋列伝の次に管仲と晏嬰に関する管晏列伝を持ってきています。それほどに敬意を払っているのです。

そして、最後に今の世にこのような方が生きておられたら私はその方の御者になりたいとまで語り心酔しています。

「史記」で語られている晏嬰はごく短い。逸話が二つ程度のものであり、それは本書でも語られています。

短いのは晏嬰について語られている他の書があるためでしょう。あえて自分が語る必要がないという司馬遷の考えもあったのかもしれません。

晏嬰の身長は低かったようです。春秋時代の一尺の長さは、約22.5センチ。晏嬰は六尺に満たずとありますので、135センチに満たないということになります。

ですが、その小さな体には、押さえきれないほどの情熱が溢れ続けました。

この気魄ではちきれそうな晏嬰を感じること。それが本書の最大の楽しみであると思います。それは様々な場面を借りて語られています。

「…晏嬰のすさまじさは、いかなる残酷な運命にみまわれようとも、少年の心がつくりあげた節義を、死ぬまでつらぬき通したということである。この驚嘆すべき個性は、悲命に斃れることなくまっとうされたという事実をふまえて、中国史上でも希有な存在となった。」

また、晏嬰の口を借りた言葉もあります。

「この人の言動には表裏がなさすぎる。人というものは自分の器量と他人の器量を想定して、物事の大小や軽重をはかる。その容量にあわぬものをうたがい、怪しむという心のしくみをもっている。晏嬰の言動は、人として想定しうる器量を越えている。屋外での三年の服喪がまさにそれである。人々は、まさか、とうたがい怪しんだが、その完遂をみとどけて感動した。その先例からすれば、晏嬰は荘公をいさめつづけるだろう。君主をうやまい国を愛する臣下として、なすべきことは、それしかない。そこには政争的なかけひきはなく、つねにものごとに全身全霊をもってあたる信念の姿勢がある。それにおもいあたった晏嬰は、

-この人は仁(まごころ)のかたまりだな。

とふるえるような感動を覚えた。それは不世出の人格を目前にしているという喜びでもあった。」

子産と比較してこうも言っています。

「子産は人臣から尊敬されたであろうが、愛されたとはいえない。その点、晏嬰はたぐいまれな人徳をそなえていたというしかないだろう。」

この晏嬰が最後に使えた景公は暗昧な君主で、暗君の代表のように言われる場合も多いです。

それをいただいて斉の国威をいささかもひびもいれさせなかったどころか、第二の栄華期をむかえます。

こうした側面だけを見れば、中興の祖と呼ばれるような人々と同じでしょう。

ですが、晏嬰はそうした人々とは本質が異なります。それを感じ取るのが本書を読むということだと思います。

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内容/あらすじ/ネタバレ

春秋時代の中期、大国と呼ばれる国が四国ある。西から秦、晋、楚、斉である。このうち、晋と楚は超大国といってよかった。

斉の頃公に晋の郤克が聘問するとの予告がなされた。晋との交誼はない。一体何しに来るというのか。これを迎えるのに当たり、頃公は無礼な方法で迎えてしまい、郤克の怒りを買う。

郤克は斉に会同への出席を求めてきたのだ。だが、これを侮辱してしまったことにより、周囲の国は郤克に同情するだろう。しかも晋の主催する会同になど出て行きたくない。そこで頃公の代理として高固が行くことになった。これに供をしたのが晏弱である。蔡朝と南郭偃も一緒であった。

会同に向かう途中で斉を追われた崔杼に出会う。そして、この崔杼から晏弱が予想していた最悪の出来事が起きそうだということを聞かされた。おもいがけなかったのは高固が斉へ帰ると言い出したことだ。

晏弱は高固のかわりに会同に出席することにした。死地に向かうようなものである。この晏弱に蔡朝と南郭偃もついてきてくれた。

…晏弱、蔡朝と南郭偃の三人は捕らえられた。そして別々のところに置かれた。だが、晏弱はひそかに逃げ出した。それは晏弱の人柄に惚れた人物が手助けをしてくれたのだ。

…晏弱の才は軍事に置いて突出していた。高固の臣という形を取りながら、率いて闘う戦には非凡なものがある。それを間近で見ている蔡朝と南郭偃にとっては天才にしか見えなかった。

頃公が晋を相手に戦いを始めた。この戦の全容を知らされていなかった晏弱は、崔杼の話を聞いて、敵方の動静に背筋にひやりとするものを感じた。そして、崔杼にあることを告げた。この戦いはいかに負けるかである。晏弱はそう考えていた。

戦は果たして負けた。だが、これを機に頃公は戦後の復興に力を注いだ。そして、敗戦国の斉を立派に復興させて頃公は亡くなった。

…晏弱の家に赤子の泣き声がひびきわたった。しかし、子は脆弱で、無事な発育を祈り「嬰」と名付けた。

崔杼が斉に戻ってきた。崔杼は新君主の霊公に取り入ることに成功し、念願の高氏と国氏への復讐を始める。

そして、霊公が意欲を注いだのが領土の拡大である。斉の北は海である。南は山岳地帯があり、魯がある。西には黄河があり、晋がいる。東にしかのびるしかない。東は<らい>である。この?攻略の将軍に晏弱が抜擢された。これを助けるのは蔡朝と南郭偃である。

攻略に入る前に、晏弱は蔡朝と南郭偃を招き、その席で晏嬰を引き合わせた。この晏嬰は蔡朝と南郭偃をひどく驚かせた。

<らい>の攻略は少数で行うことにした。そう晏弱が提案したのである。そして、長期化する覚悟が必要だという。だが、言葉とは裏腹に晏弱はあざやかに攻略した。そして、晏一族が飛躍する。嬰が成人するまで、晏一族を率いていくことになるのは、晏弱、晏りと晏父戎となった。

…晏嬰の歴史への登場の仕方は、あざやかで斉の臣民に強烈な印象を与えるものであった。

この頃、丈夫の飾りといい、女性が男装することがもてはやされていたのである。苦々しく思う人も、君をいさめることができないでいた。皆死ぬのがこわいのである。だが、晏嬰は、見事に諫言をして、この服装の乱れをただした。

斉では後継者を巡り水面下での争いが始まっていた。それは太子光を推す崔杼と公子牙を推す高厚、夙沙衛の権力闘争でもあった。

…こうした中、晏弱は死んだ。

葬儀が終わると、晏嬰は三年の喪に服す。晏嬰の喪の服し方は古来からのものであり、真の服喪である。やがて、晏嬰の服喪は世情の評判となっていく。

晏嬰が喪に服している間、斉は晋との戦いを余儀なくされていた。状況は良くない。しかも、後継者の争いが激しさを増してきていた。不利な状況に追い込まれたのは崔杼だった。だが、起死回生の策略で太子光が次の君主となる。荘公である。

晏嬰は、この戦にも、後継者争いの政争にも巻き込まれずにすんだ。そして、荘公が君主になった頃、晏嬰は古式にのっとった服喪を完遂した。これを知った士夫の多くが晏嬰に臣下に加えて頂きたいと申し出た。

…崔杼はこのままでは人心がなつかないと感じていた。荘公のやり方は逆らうものは力で潰すというやり方である。国内で尊敬される臣を近くに置く必要がある。晏嬰しかいない。

荘公は武勇好みが過ぎ、国内は殺伐とした雰囲気になっていた。これを堂々と諫めたのは晏嬰であった。晏嬰は諫言や苦言を呈しながら、心から荘公に使えていた。だが、荘公にはそれを見抜けなかった。

そして、荘公は自らを滅ぼす行動に出て行く。それは崔杼の愛妻を寝取るという行為をしたことに始まる。崔杼の中には荘公に対する殺意が芽生えていた。

…周の霊王二十四年(紀元前五四八年)。荘公が即位して六年目。この年こそ、晏嬰の名を不朽のものとした事件が起こる。

晏嬰は度重なる諫言苦言が元で荘公の不興を買い、大夫の座を追われた。だが、これで人心が荘公から離れた。そうした中、崔杼が荘公を殺した。

この荘公の遺骸に別れを告げたのは晏嬰ただ一人であった。

…公子杵臼が次の君主となり景公となる。そして実権を握ったのは崔杼だった。崔杼は政権を安定させるために心服せぬ者は殺すという態度を取った。これに晏嬰は真っ向から反論する。だが、晏嬰は殺されなかった。晏嬰を殺せば人心が離れることが分かっていたからである。

しかし、いかなる理由があろうと主殺しであることにはかわりがない。やがて政争が起き、崔氏は滅亡し、程なくして慶氏も凋落する。

こうした政争の中で景公は信じるにたるのは晏嬰であると見極めをつける。だが、しばらくの間、斉の中では権力闘争が起きていた。その権力闘争から距離を置き、常に社稷を最上位に置いて行動していたのが晏嬰であった。

その晏嬰が宰相となる日が来た。

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本書について

宮城谷昌光
晏子
新潮文庫 計約一五七〇頁
春秋時代 紀元前6世紀

目次

風雲の使者
断道の会同
斉軍の奇策
新築の合戦
斉晋の激突
政変の前夜
二卿の没落
霊公の決断
秘密の工作
?都の決戦
天才の登場
父子の諫言
回風の季節
覇権の行方
喪中の戦火
兄弟の明暗
五月の変事
美貌の夫人
荘公の遠征
苦悩の陰影
壇上の盟誓
崔氏の滅亡
慶氏の最期
廟堂の高座
虎門の攻防
天下の名相

登場人物

<斉>
晏嬰
晏弱…晏嬰の父
晏り…晏一族
晏父戎…晏一族
蔡朝…大夫
南郭偃…大夫
崔杼…宰相
東郭姜…夫人
東郭偃…東郭姜の弟
慶克
慶封…慶克の息子、兄
慶佐…慶克の息子、弟
陳無宇…陳からの亡命貴族
蕭同叔子…頃公の生母
頃公…君主
霊公…頃公の次の君主
夙沙衛…霊公の側近
太子光(荘公)
公子牙
公子杵臼(景公)
高固…上卿
高厚…高固の息子
国佐…上卿
国弱…国佐の息子
子雅…恵公の孫、景公の従兄弟
子尾…恵公の孫、景公の従兄弟
<らい>
王湫…元斉の大夫
正輿子…?の大臣
<晋>
郤克…宰相
郤至…郤氏一門の勇者
士会…宰相
苗賁皇…大夫、楚の亡命貴族
景公…君主
平公…君主
中行偃…宰相
叔向…大夫
<衛>
孫良夫…宰相
石稷…副将
献公…君主
<魯>
季孫行父…宰相
<周>
霊王…天子