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北方謙三の「武王の門」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

北方太平記(北方南北朝)の一絵巻です。征西将軍宮(懐良親王)と菊池武光を描いた作品です。

征西将軍宮(懐良親王)と菊池武光は後醍醐帝も楠木正成も新田義貞も去った後の南朝を代表する人物たちです。

懐良(かねよし)親王。「かねなが」と呼ぶこともあります。呼び名が二つあるのは後醍醐帝の皇子に共通する問題です。これは学説の相違によるもので、戦後の学説の主流は「かねよし」のようです。

菊池武光の菊池家というと九州における南朝を代表する豪族です。

そして菊池家の代名詞というと「菊池千本槍」です。縮めて「菊池槍」ともいい、勤皇を象徴するものとされました。

幕末において菊池槍を短くして脇差、短刀仕込みとし、勤皇志士の間に流布したとも言われています。

菊池家にはもう一つ代名詞があります。「太刀洗」です。

作品において懐良親王が菊池武光に次のように語っています。

『先の帝は、帝の国のために戦おうとなされた。民も、帝の国のために死ぬものだ。と思召されておられた。民あっての国だといことを忘れられたため、世はこれほど乱れた。民のためになす闘いだということを、われらは忘れまいぞ』

二人が目指した九州平定の先に見えるものというのは、後半で語られます。

懐良親王が目指したのは、九州を一つの国としてみなし、一つの国を精兵だけで守ることでした。兵は領地から解き放たれ、銭で養われます。それは新しい国の姿でした。

それゆえ、捨てるべきものもありました。

『「京へは、いつ?」
「まだ大宰府にすらも、入っておらぬ」
「お捨てなされませ、京を」
「良氏がそれを言うか」
「父をはじめとする年寄たちは、確かに京が夢でありましょう。いまの征西府なら、あるいは京を手中にできるかもしれません。しかし京は、人の世の幻でございますぞ」』

捨てたのは、今までの国の象徴ともいうべき、京の都、そのものだったのです。

新しい国というのは、日本だけで興ろうとしていたわけではありませんでした。この時期、中国大陸では元から明へと変わろうとしていました。

南北朝時代という混乱の時期において、海岸ではいわゆる倭寇が跋扈し、これには明の朱元璋も手を焼いていました。

朱元璋は懐良親王に親書を送り、倭寇の取り締まりを求めています。この親書で懐良親王を日本国王と記したため、後々ややこしいことになったようですが、それだけ九州における征西府の力というものが強かったことを示す証拠となっています。

九州は海を隔てて、古来大陸の動静が伝わりやすく、新しい考えというものが流入しやすかった土地です。大陸に変革が起きると、その影響を強く受けつづけてきた土地柄でありました。本書のように、新しい国を求めたとしても不思議ではないと思われます。

北方太平記に共通することだが、政治史からは見えてこなかった民の動きを取り入れようとしています。本書でいえば山の民です。

社会史の発達によってようやく見えてきたものであり、こうした歴史の研究結果を上手く小説に取り入れていく小説家が増えることを願っています。民の歴史は社会史の中にしかなく、それが還流されることで、より豊かで深みのある作品が誕生していくと期待しています。

北方太平記(北方南北朝)

  1. 武王の門 本作
  2. 破軍の星…北畠顕家
  3. 悪党の裔…赤松円心
  4. 道誉なり…佐々木道誉
  5. 楠木正成…楠木正成
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内容/あらすじ/ネタバレ

内海の忽那七島。河野勢が夜襲をかけてきた。忽那義範が待ち構えるその前に援軍で現れたのが牧宮だった。征西将軍宮である。

牧宮は九州に入るまでに一度闘っておきたかったと言った。名実ともに征西将軍でいるために必要だった。

義範は同じ後醍醐帝の皇子の中で、牧宮より二十歳ほど年上の大塔宮護良親王に似ていると思った。その護良親王が死んでから六年以上の歳月が流れ、後醍醐帝も新田義貞も楠木正成もいなかった。

九州への渡海はこれ以上遅延するわけにはいかなかった。だが、五条頼元から出された令旨に対して応じている豪族はいなかった。

牧宮は十四歳だ。比叡山を出て六年。この島に渡って三年になっていた。

義範は牧宮に重明をつけることにした。

豊後佐伯の港についた。

参じてきたのは名のない小さな土豪ばかりだ。想像以上に九州の情勢は南朝に厳しかった。五条頼元は武士が求めているのが栄誉ではなく、所領の安堵をできる力であり、新しい領地を与えてくれる棟梁であることを知っていた。

五辻宮が懐良親王(牧宮)の前に姿を現した。

異形の者。それを集めて軍勢となした大塔宮護良親王の影のような存在としてこの五辻宮はいたのだろうか。それが懐良親王に近づいてきた。

亀山帝の第五皇子と言われているが、まことは誰も知らない。

肥後の情勢は芳しくない。菊池は隣接に押され気味である。阿蘇は令旨に反応していない。

懐良親王の一行は海から薩摩へ向かった。迎えたのは三条泰季。そして谷山隆信らであった。

薩南の土豪は島津に反抗と服従を繰り返しながら自らの立場を保ってきた。

港に迎えに来ていたのは谷山忠高だった。隆信は労咳で館にいた。

この隆信を忽那義範の配下を名乗る忍び・葦影が訪ねてきた。葦影には五人の忍びがいた。そのうち二人が右京と楓という。隆信は楠木正成ゆかりの者と見ていた。

九州へは闘うために来た。戦をすべきだった。薩南の風を強くすることで、菊池も阿蘇も動くはずだ。

懐良親王が陣に立ち、島津兵を蹴散らして一日で五つの城を抜いた。戦の駆け引きの呼吸を天性持っているようだ。

この戦いで懐良親王の意図を谷山隆信は見破っていた。それは島津貞久の首だった。それは果たせなかったが、薩南に今まで吹いたことのない激しい風を起こした。

島津貞久が軍を集めていた。総勢五千。陣を敷く素早さはさすがだった。各地の情勢ももたらされてきた。五千というのは貞久が動かせる最大の軍勢であることは分かっている。

だが、勝った。

懐良は隆信の居室を訪ねた。一つ一つの戦に勝っても、島津は必ず少ずつ盛り返してくる。

右京が一人の青年を連れてきた。

肥後、豊田庄の菊池十郎武光と名乗った。菊池武時の庶子で、武重の弟である。今の菊池は惣領なきも同然だったが、武光は、いつの日か、必ず、と言った。

武光が単身薩摩に潜入して懐良親王から脇差を下賜されてから二年弱。菊池武光は伯父の恵良惟澄とともに出来る限りの兵を動かしてきた。だが、それすら肥後一国で高が知れた動きでしかなかった。

北からは少弐頼尚の肥後侵略が日増しに激しくなっていた。

今、菊池の惣領は武光の弟・武士である。その武士が惣領を隠退すると言いだしていた。菊池の惣領問題は秋が過ぎても解決しなかった。

その中、菊池の本拠たる深川城が合志幸隆に占領されたという。菊池にとって屈辱以外の何ものでもなかった。

武光は四十騎、百三十名ほどの軍勢で突っ込んでいった。

武士が惣領として家督を武光に譲ると宣言した。誰からも異論は出なかった。

懐良が忽那義範の航海に同道するのはこれが四度目だった。

松浦党の波多という豪族の娘・阿久里と知り合ったのはそうした中だった。そして今回、村上義弘と出会った。

航海の中では懐良は都竹と名乗っていたが、村上義弘は見抜いていたようだった。

義弘は菊池が武重、武敏の代にあれだけ戦をして軍費がどこから出ていたのだろうかと言った。暗に菊池が交易によって軍費を得ていたことを言って去っていった。

谷山隆信がひっそりと死んで一月後、菊池からの使者が到着した。菊池武光が十五代の惣領になったことを告げてきた。

菊池が一つにまとまったことは足利幕府にも少なからぬ不安を与えた。尊氏は日向にいる足利一門の畠山直顕を動かした。

九年目。島津との戦いはほぼ終わった。三度戦い、三度勝った。敗れた島津貞久には再度味方を固め直すという長く苦しい仕事が始まる。

いよいよ肥後だ。

肥後では菊池武光が加瀬忠明をよび、麾下を離れて軍費の調達の責任を負わせた。その上で、武光は軍勢を五つに分け、専門化された戦闘部隊を組織した。それは今までの家臣団の編成を覆し、すべてを直属とするものだった。

城武顕には槍一番隊を任せた。武重以来の菊池千本槍の名を担うにふさわしい猛将だ。

九州には一国以上を分国とする守護が四人おり、九州探題がいる。菊池は小さかった。

懐良親王が肥後に入ってきた。

懐良は五条頼元と向かい合っていた。

中央では南軍が吉野から追われている。だが、中央の動静に引きずられてはならなかった。今は時機ではない。

懐良は武士のありようを考えていた。武士を変質させることができるのか。九州を平定しても、それが実質的なものなのか、武光によって戴かれただけの形の平定なのか…。

懐良は武光に一度だけの宣言をした。九州を平定する。朝廷の為ではない。民のためだ。

懐良は高麗にいた。肥後に入って一年弱。九州は膠着していた。菊池は今しばらく力を蓄える必要があった。攻めに転じるには底力がなかった。

足利直冬が肥後まで逃げてきた。その直冬が見ているのは京だった。京に攻め上がり、実父・尊氏を討って、養父・直義を名実ともに征夷大将軍として幕府の頂点に立てること。

九州に入ってわずか二十日足らずで直冬は九州最大の軍事力の頂点に立った。

九州が大きく動き始めていた。

直冬は少二頼尚と結びつき、九州探題・一色範氏と対決した。九州の武士の多くが直冬になびきつつあった。

阿久里が懐良の子を産んだ。月王丸と名付けられた。

足利直義が死んだ。そして九州では九州探題・一色範氏が勢いを盛り返していた。

菊池武光は一色と少弐の本隊をぶつからせるためにわざと戦に負けた。そして、その後に針摺原で一色軍を撃破した。菊池はようやく守護三人衆と肩を並べるところまで来た。

少弐頼尚は大宰府の館で考えていた。あの戦は何だったのか…。そして征西府と菊池は九州の全守護を相手にできるほど強大になっていくのか。否定しても、かすかな戦慄が頼尚を襲っていた。

頼尚は唯心を呼び、征西将軍宮の命を奪えと命じた。

菊池の軍勢は常時五千前後。領地のための戦はしない。その軍勢が初の遠征をする。征西府旗を押し立てての遠征だ。総大将は征西将軍宮である。

この遠征は征西府の示威にはなった。だが北九州が平定できるほど甘いものではなかった。それでも一度は必要だった。

足利尊氏が死んだ。

凄絶な闘いだった。大保原で十数万の兵が死闘の限り闘ったのだ。征西府は勝ちはしたが、大きな傷が残った。

懐良の側には明源らがいた。明源は日向米良の山の民を束ねる頭の一人だ。

菊池武光がそろそろ大宰府をと切り出した。大宰府は近くて遠い。京に似た魔性を持っている。入るのはたやすくても、追い出されては意味がない。

九州の武士は心の底に大宰府を持っている。その大宰府には少弐がいた。九州探題の一色範氏も大宰府には入れなかった。

今、九州では少弐と大友が連合するしかなかった。島津は逼塞を余儀なくされ、畠山も一色もない。

肥後南部から東に向かって懐良は山越えをはじめた。明源が率いる山の民が警護している。この旅の中でお悠と会った。

山の民は懐良に何かをかけていた。

菊池の軍勢は一年以上かけて元の力を取り戻した。

武光は大宰府攻略の作戦を練り始めた。その中、日向米良の五条良氏の病死の知らせが届いた。

征西府の動きが筑後で活発になっていた。決戦は終わっていた。次に戦がある時は少弐一族を滅ぼすための戦になるはずだった。

征西府軍は博多に本陣を構えた。総勢で一万。大宰府を正面から睨み据えている。

城武顕を大将とする三千の兵が襲いかかり、二日後には征西府旗が姿を現した。

大宰府は征西府のものとなった。

新しい九州探題が送り込まれた。斯波氏経だ。これに征西府軍が散々に打ち破られた。武光は額に青筋を立てて唇をかみしめていた。

新たな情報から、本当に指揮をしていたのは少弐頼尚だったことが分かった。

少弐頼尚は乾坤一擲の勝負に出るつもりだ。だが、それが武光にすでに読み切られているとしたら…。

中国の兵が九州を侵してきた。大内弘世である。

懐良が珍しく怒りをあらわにして、九州以外の兵をただちに殲滅せよと命じた。九州を一つの国としてみなしている。

今は武をもって国を治めるしかないが、十年、二十年で九州の武士たちも戦のむなしさを知るであろう。

懐良が九州以外の武士に示した嫌悪は武光には目新しかった。それも道だと思った。

斯波氏経は結局むなしくも九州を逃げ出した。九州には九州の武士しかおらず、征西府は、懐良は名実とともに九州の覇王となった。

懐良は九州には十万の精兵がいれば十分だと思っている。武士の数が多すぎる。征西府の軍勢を十万とし、守護も国司もいない。一つの国を十万で守るのだ。そのためには富が必要だ。兵は領地ではなく、銭によって手当てをする。懐良はそうしたことを考えていた。

京で足利二代将軍義詮が死んだ。三代将軍義満は十歳で、管領の細川頼之が実権を握っている。

吉野では懐良の一つ上の兄・後村上帝が崩御した。懐良も四十歳に達していた。

大陸では元から明へと国が変わろうとしている。明の朱元璋から親書が懐良に届いた。朱元璋は独力で反明勢力の水軍を排除できないことを公に示したような親書を送ってきたのだった。

その親書は懐良を日本国王として認めていた。不遜であると、懐良は怒った。

今川了俊は調べれば調べるほど征西将軍宮が恐るべき相手であることを悟った。菊池武光もそうである。これは今川家の存亡をかけた戦いになる。

菊池武光の武命は名高いが、征西将軍宮が非凡な武将であることは調べるまで想像していなかった。

今川了俊が九州探題として西へ向かった。

今川了俊はすぐには九州に入ろうとはしなかった。九州の武士の心の中を、備後で窺っていた。

探題軍のかすかな動きが伝えられたのは、初夏のことだった。これを聞いた懐良は武光に、いやな予感がすると言った。胸騒ぎだ。

了俊は命松丸に聞いた。国とはなんだろうか。九州が征西府国、あとが幕府国。そうは考えられないか。命松丸は、かつて平将門が関東に国をつくろうとしたことを引き合いに出した。

あれとは違う。了俊は思った。はじめから征西府には意志と思想に貫かれている。それは敗者に対する扱いから見てとれた。

征西府には領地と武士を切り離すという考えがある。そこに新しい国をみた。

征西府は今川了俊を九州に引き摺り込んだ。だが、了俊は動こうとしない。そして兵力を分散させている。

武光は、兵を分散させておきたい了俊と、ひとつにまとめたい自分の争いであると見ていた。

大宰府のそばまで軍をすすめながら、今川了俊は耐え続けていた。

いつの間にか着ているものを全て剥ぎ取られたような気分だ。征西府軍は、まだ全坊を見せていなかった。京を出て一年半。菊池の軍勢とは直接どころか、姿さえ見たことがなかった。

それに、大軍を擁したまま九州に滞陣するのはそろそろ限界だった。

並び鷹の羽の旗。二万の軍勢の先頭に、ついに旗が出たという。了俊の全身に血が駆け巡るのを感じた。

了俊の背後には二万の麾下、前方には五万の軍勢が五段構えで待ち構えている。この規模の戦をすることは、生涯二度とないだろう。悔いのない陣を敷いた。

その了俊をめがけて、城武顕が突っ込んできた。四段目まで破られようとしている。

戦の中、俄かの病で菊池武光が死んだ。

馬上で、軍配を掴んだままだったという。

勝ち戦だった。胸のすくような。

あと一度の攻撃で、今川了俊の首が取れたはずだった。

懐良は大宰府を捨てて高良山へ落ちた。よく十一年ももちこたえたものだ。

大宰府に入った今川了俊は、時折戦のことを思い出す。九分通り負けていて、あとは自分の首が飛ぶことしか残っていなかったはずだった。

本書について

北方謙三
武王の門
新潮文庫

目次

第一章 海より来るもの
第二章 疾風起こりて
第三章 陽炎の日々
第四章 冬の獅子たち
第五章 風と雲の大地
第六章 猛き日輪の下
第七章 やがて時が
第八章 覇道はるかなり
第九章 大宰府への道
第十章 海にむかいて
第十一章 高麗の空
第十二章 天の影 地の光
第十三章 勇者たちの宴
第十四章 浦ふく風のしるべ
第十五章 雷鳴の時
第十六章 夢の海

登場人物

懐良親王(牧宮)…征西将軍宮
阿久里
月王丸
笙子
五条頼元
五条良遠…頼元の長子
五条頼治…頼元の孫
冷泉持房
中院義定
三条泰季
忽那重明
忽那義範(南浦)
葦影…忍び
右京

誓亀
早助…武光の忍び
五辻宮
谷山隆信
谷山忠高
島津貞久
菊池十郎武光
菊池武政
菊池武澄
つね
松丸
加瀬忠明
城武顕
菊池武士(祖禅寂照)…武光の弟
恵良惟澄…武光の伯父
阿蘇惟時
阿蘇惟村
少弐頼尚
饗庭宣尚
唯心
村上義弘
足利直冬
川尻幸俊