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北方謙三の「道誉なり」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

南北朝時代を舞台にした北方南北朝、あるいは北方太平記の一絵巻です。主人公は佐々木道誉。京極道誉ともいわれます。「ばさら大名」で知られる人物です。

ばさらとは何か?

北方氏は次のように述べています。

『道誉が笑い、尊氏もつられて笑った。
「しかし、ばさらとはなんだ、道誉。そういう直垂を着て、人を威しながら歩くことか?」
「なんの。ただ毀したいと思う男のことを、ばさら者と呼びます。帝は、すでにあったものを毀そうとされ、尊氏殿もまた同じだ。」
「迷惑な男のことだな。しかし俺は、ばさらと呼ばれたことはない。ばさら者で通っているおまえは、なにを毀したい?」
「自が生を。これまでに生きてきた際月を」』

北方南北朝(北方太平記)は主に南朝側の人物からの視点が多いです。

「武王の門」では懐良親王と菊池武光。「悪党の裔」は赤松円心。「楠木正成」は楠木正成と護良親王。「破軍の星」では北畠顕家。

この時代は一種のタブーのようなものがあって、題材として扱っている作家というのは極めて少ないです。

現在ではこのタブーはだいぶ薄らいでいますが、過去の遺産の結果か、この時代の研究というのが他の時代に比べて進んでいないような気がします。

研究が進んでいないということは、よく分かっていないということでしょう。となると、小説を書く人間も書きづらいこと想像に難くありません。

南北朝時代というのは、保守と革新の戦いだったという見方はできないでしょうか。この場合の保守とは武士政権で、革新が帝の親政です。

我々はこの後の時代の歴史も知っています。結局のところ、武士政権というのが、江戸開城の一八六八年まで続きます。一一九二年(近年ではこれ以前に事実上幕府機構が出来上がっていたので、一一八五年頃という説が占めています)から数えれば六百八十年余り続いたことになります。

これだけ長期にわたって、一定の身分の者たちによる政治が行われたのですから、こちらを保守と考えてもよかろうと思うのです。

では対する革新はどういう人々だったのでしょうか。

本書でも随所に語られるように、後醍醐帝は武士とは異なる悪党や異形の者たちを多く集めていました。いわばアンチ武士の集まりです。もしくは武士政治からはみ出したものたちです。

現在では社会史が大幅に発達したおかげで異形の者たちの役割というのがだいぶ分かってきているようです。

異形の者たちは、今まで政治の表には登場してこなかった者たちで、「政治史」の側面からは捉えることのできない者たちです。

そうした者たちが後醍醐帝を支えて、新たな時代を夢見たのでした。まさに革命的であり革新的です。

ですが、結果を見れば一目瞭然。結局は武士の時代がそのまま続き、異形の者たちは政治史に載ることはありませんでした。

異形の者たちが歴史を作ることはなく、革命は終わりました。革新が保守に敗れたのです。

北方太平記(北方南北朝)

  1. 武王の門…懐良親王と菊池武光
  2. 破軍の星…北畠顕家
  3. 悪党の裔…赤松円心
  4. 道誉なり 本書
  5. 楠木正成…楠木正成
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内容/あらすじ/ネタバレ

佐々木道誉は柏原城の西に本陣を置いていた。

南北の六波羅探題は京を捨てており、北条仲時が近江に逃げ込んでいる。面倒なのは持明院統の天子、上皇を連れていることである。

時代の動きが早かった。

足利高氏は二股をかけていた。肚を決めたのは、名越高家が赤松勢に討たれた時だろう。

道誉は近江を本拠とする佐々木一門の庶流にすぎなかったが、本家が絶対ではなかった。最後の帰趨はそれぞれの家が決める。

道誉は太平寺に行くことにした。そこには光厳帝、後伏見、花園の両院、神器もある。

六波羅に高氏の本陣があり、弟の直義もいた。

神器を携えて道誉は現れたが、帝を名乗る方が二人おり、どちらに渡せばよいのか判断がつかなかった。

関東では新田義貞が兵を挙げたという。新田は愚直なだけだ。これからの相手は駆け引きにたけた殿上人である。

高氏は道誉を見て、変わったなという。まわりが変われば、同じでも変わって見えるものだ。高氏の方がもっと変わったと道誉は言った。

京は騒然としていた。鎌倉が落ち、北条一門の主だったものは死んだ。幕府も崩れ始めると早かった。

武士の棟梁である征夷大将軍を大塔宮は望んでいる。朝廷の次の敵は足利というのは慧眼だった。その高氏は帝より尊の字を与えられ、尊氏となっていた。

道誉には市中見廻りの仕事が与えられた。検非違使だったころと変わらない。

武士たちが望んでいるのは一目瞭然だった。もめ事を公平にさばいてくれる棟梁だ。公家が入り込むことによって面倒になっている。

帝の親政を尊氏は見定めようとしているようだった。

見廻りの中で大塔宮護良(もりよし)を名乗る一行に出会った。集まっているものは異形の者が多い。

道誉は大塔宮と飲んだ。

大塔宮は朝廷の武士を育てるという。楠木正成がおり、名和長年もいる。

大塔宮の考えは理解できたが、親政の混乱は続いていた。道誉には公家が舞い上がっているとしか思えなかった。千種忠顕などがその例だ。

道誉は大塔宮に唄を聞かせた。犬王の唄だ。

後醍醐帝と尊氏の暗闘がかたちとして見え始めてきている。尊氏は親政の要職につかなかったが、朝廷にまで尊氏の力が及んでいた。

道誉は雑訴決断所の要職についたが、二人の公家を叩き倒した。すぐに謹慎となった。

尊氏は道誉を呼んだ。尊氏は道誉が己の敵なのか味方なのか判断ができないと言っている。一方で、後醍醐帝は嫌いになれないのだという。

今、大塔宮の力は尊氏が削ぎ落してないも等しい。気になるのは奥州へいった北畠顕家だけだった。

大塔宮が捕縛された。鎌倉へ行く途中の一行を道誉は待ち構え、犬王に唄わせた。

大塔宮がいなくなって、帝と尊氏はしばしば直接ぶつかるようになった。

道誉は京極の館ではなく、高橋屋にいることが多くなった。本家の時信が病没し、氏頼が佐々木一門の惣領となり、道夜が後見となった。

大塔宮にかわって新田義貞の存在が大きくなった。だが、大塔宮ほど扱いにくくはない。

この間に、朝廷転覆計画が発覚した。次第に何かが近づいている感じがする。そして関東で大きな反乱がおきた。鎌倉が落ちた。

尊氏は反乱の鎮定で勅許を求めていた。征夷大将軍も同時に求めている。帝は拒絶していた。道誉の予想していた通りの動きである。

征夷大将軍が成良という皇子に与えられると、尊氏は勅許を待たずに進発した。足利軍が近江に入ったところで、道誉は全軍を動かした。

直義は三河で待っているだろう。それまでは道誉が先導するつもりでいる。

大井川で、道誉は二万の敵を三千で蹴散らした。尊氏はその功績を認めざるを得なかったが、道誉の方からは恩賞をよこせとは言ってこなかった。そういう男なのだ。すべては尊氏で測れといっている。

鎌倉は再び落ちた。

帝は帝でいい。だが、武士をまとめるのは幕府がいる。それを帝は理解しようとしない。

尊氏追討の軍勢が京を発った。総大将は新田義貞である。

尊氏はなかなか動こうとしなかった。直義はいら立っている。

北畠顕家が率いる数万の軍勢が、美濃に入るところであった。

尊氏は北畠、新田の追撃を受け、丹波へ退き、丹波からも逃げた。そして帝が京へ戻った。

その尊氏に持明院統光厳院の院宣を手に入れろと言ったのは赤松円心と佐々木道誉だった。二つの錦旗だ。

ばさらということばを尊氏は噛みしめていた。毀すことだと道誉は言った。本物のばさらは帝のありようまでも毀そうというのか。

尊氏は九州まで落ちてきた。ひどい負け方だった。すべては北畠顕家だった。

その北畠軍を道誉は見ていた。神業としか思えない早さで陸奥からやってきた軍は陸奥へ帰ろうとしていた。

道誉は楠木正成と会っていた。帝と尊氏を取り持ってもらうためだ。

正成は倒幕の戦で燃え尽きていた。

尊氏の九州での立ち上がりは早かった。その間、播磨では赤松円心が大軍をせき止めていた。

帝が、また山門に入った。

尊氏は幕府を京に置くつもりでいた。そうすると地理的な近江の重要性が高まる。小笠原貞宗を送り込んだ。道誉はそれを上手く利用した。逆手に取られた。そして、道誉は小笠原貞宗を追い出してしまった。

その間、天に二人の帝ができた。尊氏は征夷大将軍ではなかったが、幕府ができている。戦むきは高師直、政事むきは直義と分担し、その上に尊氏がいる格好だった。

京の平穏を取り戻しても、戦はすべて止んだわけではなかった。

北畠顕家が敗れ、新田義貞が死んだ。

そして吉野にいる後醍醐帝が死去した。

武士たちは直義派と高師直派とに分かれつつあった。

佐々木道誉は出羽に配流と決まった。山門を鎮めるためだ。だが、出羽にはいかず鎌倉に行った。鎌倉には義詮がいた。

戦いはまだ続いており、後醍醐帝の崩御後吉野では次の帝を立てた。

高師直と足利直義の溝が深まっている。直義は北条の執権政治を是としていた。それゆえ師直の幕府の軍勢を無用とみていた。

直義は公平で峻烈でさえあったが、北条の幕府機構を超えてはいなかった。

幕府内での直義と師直の押しあいは土岐頼遠の件をきっかけに激しくなり、表面に出てきた。道誉は京と近江を往復することになった。四十八歳になっていた。その年、道誉は出雲守護職に補された。

道誉が朝廷との交渉窓口になった。相手は観修寺経顕だ。この二年、朝廷側の交渉役は観修寺経顕がやっていた。

そろそろ吉野が動く。

九州も不穏だった。征西将軍宮の勢力が強くなってきている。九州探題の一色範氏を置いたのがかえって九州をまとまりにくくしていた。

戦雲の気配が漂っている。河内辺りが中心だ。力になったのは北畠親房だった。吉野に戻ってからの親房の動きも活発だった。

楠木正行は一千の軍だったが、背後に何千か何万かの軍勢がいる。正成のやり方と同じだった。

道誉は楠木軍の動きを美しいと思った。人はあれほど美しく死んでいくことができるのか。死に向かって駆けることができるのか…。

直義と師直の力関係が逆転した。

師直は徹底していた。吉野を占拠しただけでなく、全山に火をかけ、焼き尽くした。大覚寺統の帝は南に落ちて行ったという。

直義は強硬だった。直冬の中国探題補任は師直への巻き返しの決め手だった。

直義は師直を尊氏の執事の地位から落とすことを求めた。たしかに師直は力を持ちすぎていた。

罷免を聞いた師直の顔にほっとした表情が浮かんでいた。継いだ師世の後ろでは師直が操る。それを直義は警戒するだろう。

幕府は毀れていく。少しずつ。それはそれでいいのだ。毀れたところには、新しいものが作れる。

師直は道誉に義詮を託した。その数日後、異変が起きた。師直が兵を動かしたのだ。尊氏の館を囲んでいるという。直義が逃げ込んでいるからだ。

道誉は動かなかった。いやな匂いがする…。

直義は今の地位を去り、師直は元の執事に戻った。

だが、直冬が九州で力をつけるのを待ち、直義は師直討伐の兵をあげた。どちらが妥協したというものではなかった。師直、師泰は出家することになった。

義詮を前に道誉は言った。

人の心が乱れている。だから乱世というのだと。

直義は尊氏に攻められた。そして降伏して死んだ。

義詮は疲れ切っていた。道誉は能役者たちを招いて慰めた。観世丸は観阿弥と名乗り、犬王も道阿弥と名乗るようになっていた。二人は対照的で、これからの芸の世界を担っていく。

京で義詮は一人だった。尊氏は鎌倉から戻ってこない。

今、幕府の力を阻害しているのは直冬の存在だった。

尊氏は京を奪い合う戦が馬鹿げたものだということを痛いほど分かっている。

京を維持するには、京にいる軍勢ではなかった。京はすぐに兵糧が止められる。無駄なのだ。京を維持できるかどうかは、全国にどれだけ力を持っているかによるのだ。総合力の勝負だった。

東国の反乱は叩きつぶした。だが、直義についた大名は残っている。

天皇がいない事態を尊氏はどう扱っていいのか分からなかった。

弥仁王の名が届いた。佐々木道誉の献策だった。道誉の動きが鎌倉からでも目立った。やはり天皇がいない今の状況を打破するには道誉が必要だった。他に見当たらなかった。

道誉は五十八になっていた。いつ死んでもおかしくない。

地方では小さな反乱があったが、京は平穏が続いていた。戦が近づいている。直冬を担いだ山名、北陸の斯波、この二大勢力につく大名たち。幕府と拮抗する。道誉はそう見ていた。

直冬を総大将とする敵は山崎から鳥羽にかけて二万、京の中に三万いた。淀川の物流は義詮の勝利で止めているが、北からの兵站は切れていない。

直冬は賀名生の朝廷に降伏して錦旗を手に入れようとしている。

九州では懐良親王が菊池武光に担がれ急速な力をつけている。

尊氏が自ら九州討伐に乗り出そうとしたが、賀名生に拉致されていた光厳、崇光の両上皇が京に戻ってきたため沙汰やみになった。

尊氏が倒れた。道誉は尊氏の顔に死の影が漂っているのを見た。

本書について

北方謙三
道誉なり

目次

第一章 激流
第二章 京より遠く
第三章 いかなる旗のもとに
第四章 征夷大将軍
第五章 猿の皮
第六章 花一揆
第七章 橋勧進
第八章 騒擾やまず
第九章 無窮
第十章 尊氏は死なず

登場人物

佐々木道誉
羽山忠信
姫橋道円
蜂助
黒夜叉…忍び
吉田厳覚
えい
犬王
阿曽
一忠
観世丸
佐々木時信

足利尊氏(高氏)
足利直義
高師直
足利義詮(千寿王)
嘆虫…忍び
血虫…忍び

大塔宮護良

観修寺経顕