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土浦城の訪城記-歴史と見どころは?(茨城県土浦市)亀城公園

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茨城県土浦市にある平城です。続日本100名城に選ばれました。

JRの土浦駅から離れていませんので、公共交通機関を利用して行かれるのがいいです。

車で来る場合は、土浦市立博物館の第二駐車場がオススメです。台数が少ないので、注意が必要です。

宿泊旅行なら旅行サイトを利用するのが良いと思います。下記をご参考になさってください。
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土浦城の歴史

公園となっている部分は、旧本丸と二の丸を中心とした部分で、周囲を濠が囲っています。

こぢんまりとしたお城です。天守が作られたことはないようです。

本丸にも天守があったような場所はありませんし、そもそも本丸が天守を建てられるほど広くありません。

元々は幅の広い濠を二重に囲っていて、水に強い城だったそうです。

今の濠はだいぶ幅が狭い感じがしますので、往時はもっと広かったのではないかと思いました。

濠の水は、すぐ近くの霞ケ浦から引いたようです。

土浦が水害に襲われても、城は沈まなかった言われ、その様子から別名が「亀城(きじょう)」です。

平安時代平将門が建てたという伝説があるようです。

このエリアが平将門が活動したエリアでしたので、もしかしたら、本当かもしれません。

とはいえ、文献等では確認できないそうです。

そういう意味では、関東各地にある平将門伝説の一つと言えます。

土浦城跡および櫓門

県指定史跡第1号
土浦市中央一丁目
昭和27年(1952)11月18日指定
管理者 土浦市

土浦城は、一名亀城(きじょう)ともよばれ、平城で、幾重にも巡らした濠を固めとする水城でもあった。城は、城跡に指定されている本丸・二の丸を中心に、三の丸・外丸のほか、武家屋数や町屋を含み、北門・南門・西門を結ぶ濠で囲む総備えの規模をもつものであった。

江戸時代の建物としては、本丸表門の櫓門・裏門の霞門、二の丸と外丸の間に移された旧前川門(高麗門)があり、復元された建物としては、東櫓・西櫓がある。

戦国時代には、城主は若泉氏、信太氏、菅谷氏と変遷したが、織豊期には結城秀康の支配下に入った。江戸時代の城主は松平(藤井)氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、松平(大河内)氏と変ったが、土屋政直が再び入城して、以後明治維新に至るまで土屋氏(9万5000石)の居城となった。

明治以降、本丸跡は土浦県庁、新治県庁、新治郡役所、自治会館などに利用されたが、現在は二の丸跡の一部とともに亀城公園となっている。

平成11年(1999)6月
土浦市教育委員会
土浦亀城ライオンズクラブ寄贈
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土浦城の見どころ

東櫓と霞門

大通りに面した東櫓のある霞門から本丸に入っていきます。

本丸

本丸土塀

土浦城本丸の土塁上には、鉄砲狭間のついた塀がまわっていたことが江戸時代の絵図に描かれています。当時の記録には、塀の高さなどに加え、大筒狭間や石落しなどが塀に附属したことも記されています。

また、近年の本丸の発掘調査によって塀の基礎地業である砂利敷造構が発見され、塀に葺かれていた瓦の形状なども判明しました。また、櫓門の両袖の柱にはかつて塀が取り付いていた痕跡が残り、その構造や塀の厚さなども判明しました。

こうした調査の成果により、土壁下地に漆喰仕上げの土塀を復元しました。江戸時代の記録のとおり、塀の高さは東櫓脇の一部が七尺半、その他は七尺としました。塀に附属する防御装置として東櫓の脇には石落し、櫓門の脇には大筒狭間を設けました。

本丸土塀の案内板

西櫓

土浦城 西櫓

由来

本建造物は、十七世紀初頭元和六・七年頃城主西尾氏の時代に本丸土塁上に東西の櫓が建立されたとされ、西櫓はその一方の櫓である。

土浦城は、その後土屋氏の居城として明治の廃藩置県に至るまで幕藩政治における土浦の中心、象徴として存在していた。

土浦城内の建造物は、明治以降、本丸館を始め多くの建物が火災や移築、取り壊しにより失われ、昭和・戦後に至り、本丸には、太鼓櫓、霞門、西櫓を残すのみとなった。

そして、この西櫓も老朽化と昭和二十四年のキティ台風により、小破し、昭和二十五年に復元を前提として解体された。

その後復元を見ず今日に至り土塁上には礎石のみが残され、僅かに往時をしのばせるのに過ぎなかったものを、市民の浄財をもとに復元したものである。

平成四年七月
土浦市教育委員会

太鼓櫓門

二の丸

前川口門

市指定文化財建造物

土浦城旧前川口門

指定 昭和四十六年(一九七一)七月十三日

この門は、親柱の背面に控柱を立て、屋根を架けた高麗門である。高麗門は城郭の門として建てられた形式の一つで、この門も、武家屋敷であった多計郭と町屋の間を仕切る「前川口門」であったといわれている。江戸時代末期の建築である。

明治十八年(一八八五)に土浦戸長役場(のち町役場)の門として、さらに大正九年(一九二〇)には田宿町(現大手町)の等覚寺山門として移され、その後、寺の寄贈を受けて、土浦城内の二の丸入口にあたる「二之門」のあったこの位置に、昭和五十六年(一九八一)移築されたものである。

平成十四年(二〇〇二)三月
土浦市教育委員会

櫓門の礎石

土浦城櫓門の礎石

ここにある8個の石は、土浦城本丸入口にある櫓門の礎石です。昭和62年(1987)の櫓門解体修理の際、発掘調査によって現在の礎石の下から発見されました。おそらくは、明暦2年(1656)と考えられる櫓門建築の時に使われた最初の礎石と思われます。

石材は、すべて輝石安山岩(伊豆石)です。大きい方の長方形の石は、扉の両側に使われました。どの石にも柱を差し込む「ほぞ穴」があいています。

土浦城櫓門の礎石の案内板

場所と地図

〒300-0043 茨城県土浦市中央1丁目13