信州・松本城の訪城記-歴史や見どころは?(長野県松本市)現存天守・日本100名城[国宝][国の史跡]

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善光寺を参拝した後に、少し時間があったので、訪れたいと思っていた松本城に向かいました。

夕暮れが迫る中でしたので、天守が最もきれいに写る時間帯ではありませんでしたが、満足度は高かったです。

念願の国宝五城(以前は国宝四城と呼ばれていました)の一城を見学できたのが大きな収穫です。

姫路城ははるか昔に行ったことがありますが、いつか再び行ってみたいと思っています。

宿泊旅行なら旅行サイトを利用するのが良いと思います。下記をご参考になさってください。

松本城の歴史

長野県松本市にある日本の城で乾小天守は現存最古の天守。

天守は安土桃山時代末期から江戸時代初期に建造されました。

天守は国宝に指定されています。

天守が国宝指定された国宝五城の一つです(他は姫路城、犬山城、彦根城、松江城)。城跡は国の史跡に指定。日本100名城の29番目。

小笠原氏時代

松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)呼ばれていました。烏城(からすじょう)とも呼ばれています。

信濃守護家小笠原氏の居城である林城の支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれています。

武田信玄の侵攻

戦国時代の永正年間(1504~1520年)に、信濃守護の小笠原家(府中小笠原氏)が林城を築城しました。林城は松本市内にある山城で、小笠原氏の居城でした。

天文19年(1550年)に武田信玄が信濃を攻め、林城は一夜にして落城し、信濃守護だった小笠原長時が追放されました。この時に深志城なども落城しました。

武田信玄は林城を廃城にし、深志城をこの地域の中心に置きます。

城代は武田二十四将の一人で四天王とも呼ばれた馬場信春を配置しました。

この地域から北信濃を巡って村上義清、越後国の長尾景虎(上杉謙信)との戦が続くのですが、武田家がこの地域を明け渡すことはありませんでした。

織田信長の侵攻

天正10年(1582年)に織田信長が武田家を攻めました。武田勝頼が死ぬと、深志城も織田家のものとなりました。

城は城代・馬場昌房(馬場信春の息子)から織田信長の弟・織田長益(=織田有楽斎)に明け渡されます。

領土は織田信長によって木曾義昌に与えられたましが、同年、本能寺の変で織田信長が死んだため混沌とします。

遺領争い

すぐさま武田家の遺領を巡る争いが起きます。天正壬午の乱と言われます。

深志城は、越後の上杉景勝(上杉謙信の後継者)に擁立された小笠原洞雪斎(小笠原長時の弟)が奪い取りました。

ですが、小笠原洞雪斎の求心力がなく、徳川家康の麾下になっていた小笠原貞慶(小笠原長時の息子)によって攻められ、城を明け渡すこととなりました。小笠原貞慶は深志城を松本城と改名します。

豊臣秀吉の時代

天正18年(1590年)、豊臣秀吉により徳川家康の関東移封が行われ、松本城主だった小笠原秀政(小笠原貞慶の息子)も下総古河へと移りました。

代わりに松本城に入城したのが石川数正です。

石川数正は徳川家康の家臣でしたが、豊臣秀吉側へ移っていました。

移ったというよりは、寝返ったというのが正しいです。

その石川数正と子・石川康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行いました。

江戸時代

慶長18年(1613年)の大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が再び入城します。

夏の大坂の陣で小笠原秀政が戦死し、所領は息子の小笠原忠真が継ぎます。

その後、小笠原忠真が播磨三木明石に移封され、松本藩は同じく譜代の松平(戸田)家の松平康長が継ぎます。

松平康長、松平庸直と続き、松平庸直が播磨明石に移封されると、親藩の松平直政(後に松江藩に移封)、譜代の堀田正盛(後に佐倉藩に移封。居城は佐倉城。)と続き、水野家へ続きます。

水野家は6代続き、その後、再び松平(戸田)家が9代続いて明治維新を迎えました。

江戸時代に松本城に受難が降りかかります。

享保12年(1727年)に本丸御殿が焼失してしまうのです。

藩政は二の丸で執務がとられました。

本丸御殿は天守の前の広場にありましたので、天守が火を免れたのが僥倖といえます。

もし、天守が燃えてしまっていたら、再建されることはなかったに違いありません。

明治維新後

明治維新後に再び松本城に受難が降りかかります。

明治5年(1872年)に天守が競売にかけられたのです。

この時は地元の有力者の市川量造らによって買いもどされて解体の危機は逃れました。

ですが、明治30年代頃より天守が大きく傾きはじめます。

松本中学(旧制)校長の小林有也らにより、天主保存会が設立され、明治36年(1903年)より大正2年(1913年)まで「明治の大修理」が行われました。

天守とその構造

国宝に指定された大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の五棟
松本城天守群は、大天守(だいてんしゅ)・乾小天守(いぬいこてんしゅ)・渡櫓(わたりやぐら)・辰巳附櫓(たつみつけやぐら)・月見櫓(つきみやぐら)の五棟で形成されています。大天守と乾小天守を渡櫓によって連結し、辰巳附櫓と月見櫓が複合された連結複合式の天守です。
これらの天守群は、昭和4年(1929)に制定された「国宝保存法」により、昭和11年(1936)4月20日国宝に指定されました。

平城

松本城は標高590メートルの盆地内平地に位置しています。平地に築かれた平城です。城郭を囲む三重の水堀と土塁・石垣、出入り口や土塁の上に櫓や城門などを備えていました。三の丸内に武士を居住させて、防備を固めていました。

現存する天守12城のうち五重六階の天守としては日本最古の天守

松本城 現存する天守12城のうち五重六階の天守としては日本最古の天守

大天守と乾小天守、その両者をつなぐ渡櫓は、戦国時代末期に築造され、辰巳附櫓と月見櫓は、江戸時代初めに造られたと考えられています。豊臣秀吉の家臣、石川数正・康長父子により創建された大天守・乾小天守・渡櫓は、文禄2~3年(1593~4)にかけて築造されたというのが松本市の公式見解です。

これら三棟は、江戸の家康を監視する城として、甲府城・高島城・上田城・小諸城・沼田城とともに秀吉側の城主が配置された江戸包囲網のひとつの城といわれています。

https://www.matsumoto-castle.jp/about/tower

松本城の見どころ

国宝松本城天守の碑

由緒版

お堀

黒門

天守

天守の中の風景

本丸跡

しおり

松本城の概要

別名深志城、烏城
城郭構造梯郭式+輪郭式平城
天守構造連結式望楼型(1593年頃か1615年築)
複合連結式層塔型5重6階(1633年改)
築城主小笠原貞朝、石川数正・康長父子
築城年1504年(永正元年)
指定文化財国宝(天守)
国の史跡

公式ページ

国宝 松本城 - 松本城をより楽しむ公式ホームページ

地図と住所

〒390-0873 長野県松本市丸の内4−1

0263-32-2902

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