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火坂雅志の「虎の城」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

藤堂高虎を主人公とした小説である。藤堂高虎といえば、あまり良い評価をされていないことが多い。他の小説などを読むと分かるが、たいがいは悪く描かれることが多い。これに対して、筆者は言う。

『藤堂高虎は、誤解に満ちた人物である。
生涯のうちに何度も主君を替え、最後は豊臣家から徳川家へ鞍替えしたあざやかすぎる転身ぶりから、「風見鶏」あるいは「裏切り者」と、評されている。
しかし、その人生をたんねんにたどっていくと、高虎は一度たりとて、人を裏切ったり、信義にもとる行動をしていないことがよくわかる』

そう、藤堂高虎のイメージというのは「風見鶏」「裏切り者」といったものに集約されることが多いように思う。
だが、と作者は続けていう。

『そもそも、そのような男であれば、人を見る目の肥えた苦労人の徳川家康が、高虎に対して譜代の臣以上の絶大な信頼を寄せるはずがない。』

そうなのだ。外様にもかかわらず、藤堂高虎ほど徳川家康に信頼された人物もいなかった。本書で書かれているように、重要な城の築城に大きく関わっている。相当な信頼がないと任せられないはずである。

ちなみに、高虎の手がけた城としては、和歌山城、大洲城、宇和島城、今治城、膳所城、伏見城、江戸城、駿府城、篠山城、亀山城、津城、伊賀上野城などがあるそうだ。

また徳川家での藤堂高虎への信頼は家康のみならず秀忠にも受け継がれている。

本書の冒頭に書かれているが、徳川秀忠が、藤堂高虎に国を治めるものの心得を聞いたところ、高虎は次のように答えた。

天下を治める要諦は、人を見る目を養うことにある。大将として多くのものをまとめる力があるか。才知はなくとも信義にはあついか。配下の働きには報いているか。など、見極め、適材適所に人物を配さなければならない。加えて、人を信じることが何よりも大事だ。

上の者が下を疑うのなら、下も上を疑う。互いの心は離反して、それを狙って姦人が讒言をおこなうようになり、有能な人材は失われる。

家康同様に苦労を重ねた高虎の言葉は秀忠にも強く響いたにちがいない。

近江の人間だった藤堂高虎は領内の商人たちの活動も積極的に後押しをしたようだ。藤堂家の後押しを受けた伊勢商人たちは、大消費地江戸への木綿の売り込みに励み、成功する。後に、江戸の町に目立つものとして、伊勢屋、稲荷に犬の糞といわれるまでになる。

理財にたけた近江の人間ならではなのかもしれない。

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内容/あらすじ/ネタバレ

天正元年(一五七三)、近江の小谷城。浅井氏は織田信長によってまさに滅ぼされようとしていた。その城に向かって身の丈六尺三寸の偉丈夫が走っていた。

若者はかつて浅井氏に仕えていた時に慕っていた女性を助け出そうとしていた。若者は藤堂与吉高虎。若者は姉川合戦でその武名を轟かせていた。だが、与吉は恋い慕っていた美秋ノ御方を救い出すことはできなかった…。

十九才の高虎は小谷落城後、浪々の暮らしを送っていた。その高虎を誘ったのは磯野員昌だった。この磯野家を信長の甥・信澄が養子となり継ぐことになった。

天正三年。長篠で武田家を破り信長の天下は間近に来ていた。その中、高虎は磯野員昌、信澄親子とともに、越前へ出兵したり、丹波へ攻めたりした。だが、労多くして功少ない戦となった。このあと、高虎は三度目の牢人となる。

羽柴秀長が高虎を召し抱えたいといってきた。秀長は兄秀吉の一家臣でしかなく、城持ちの大名でさえない。自分の知行も八千五百石しかない。このうち三百石を割いて高虎を迎えてくれた。高虎は茫然とした。

この時に高虎は秀吉夫人ねね、そして一人の若者と会った。若者は佐吉といった。後の石田三成である。

秀長は安土城の城造りに関わっていた。秀長の代わりに高虎が城普請を受け持った。ひとかどの武将たる者、兵法から築城法、兵糧の調達、金銭のやりくりと全てを心得ておかねばならないという秀長の言葉が高虎の胸に深く刻まれている。

時代は、地方の土豪の争いから、天下統一を目指す大規模な戦闘に変わってきている。組織としての力が問われる時代になってきたのだ。

初めて人に指図をすることになった高虎は悪戦苦闘のすえ、秀長の兄・秀吉にも認められる仕事をしてのけた。

秀長には学ぶことが多かった。秀長の働きによって、長浜城の羽柴家の蔵には常に潤沢な軍資金が用意されていた。

秀吉が信長の逆鱗に触れることをした。北陸に向かったものの、柴田勝家と衝突して、単身戻ってきてしまったのだ。帰ってからも秀吉は不埒な謹慎生活を続けていた。

この中、秀長は播磨へ行って調略して来るようにいわれる。信長に実績を示して怒りを解こうというのだ。一行は播州の小寺官兵衛の屋形に向かった。

そして、信長の勘気を解き、秀吉は中国攻めの総大将となった。秀吉は秀長に但馬国の切り取りを命じた。

高虎はこの頃には相当の実務能力を身につけ、秀長の信頼は篤くなっていた。その秀長から明延銅山の復興を命じられた。

天正五年(一五七七)。羽柴秀吉は播磨の上月城の攻略をしていた。が、やがて前後を敵に挟まれ窮地に陥る。一旦総大将の地位を、織田信忠に譲り渡すこととなる。

秀長の命により明延銅山の復興をしていた高虎は、復興に成功し、羽柴軍団に潤沢な資金を与えることになる。

再び指揮権を得た秀吉は三木城を攻め落とし、播磨一国を手中に収めた。秀長にも加増があり、高虎も三千三百石の身分になった。

高虎は若党の大木長右衛門や居相孫作などを引き立てようとしたが、二人は断った。のちに高虎が大名になった時も高禄を断った二人である。生涯現場で働く道を選んだのだ。

高松城の水攻めをみて、高虎はもっと土木を学ばなければと考えていた。

天下を揺るがす自体が勃発した。織田信長が本能寺で明智光秀に討たれたというのだ。

秀吉が政権を担うようになってから、吏僚を重用し始める。譜代の功臣である武功派と対立が生じ始めるが、今は調整役の秀長がいるため、組織として機能していた。

秀長は但馬に加え播磨二郡を与えられ、姫路城主となっていた。高虎も四千六百石取りになっていた。

高虎は「おのれだけの売り」を作っていくことが目標となっていた。そして、それは大坂城を見た時に見えてきた。城造り。これが高虎の売りになっていく。

小牧・長久手の戦いのあと、紀州を制圧した秀吉軍。秀長は現在の和歌山である岡山に居城を築くことにした。この縄張りを高虎が行うことになった。

秀吉が関白となり、秀長も四国攻めの功により、石高は百万石の大封を得ていた。高虎も紀州粉河一万石を得ており、石高からいえば大名格だった。また、築城家としての能力も徐々に認められ始めていた。

秀吉が徳川家康を迎えるために急ごしらえで造らせた屋敷も、高虎が縄張りをした。その見事さに驚いた家康は高虎を一度見てみたいと思った。

九州攻めの功により秀長は大納言になり、高虎も二万石を領することになった。だが、この九州攻めの中で、高虎は決定的に吏僚派が嫌いになる。特に石田三成には最悪の感情しかもてなくなった。

二万石を領したことから人材が不足した。そのため、苦労人であること、心がねじ曲がっていないこと、はらがすわっていることの三つの基準をもうけて人を採用した。

秀吉の天下となり、秀吉は秀長に一族の辰千代を跡取りにせよと命じてきた。秀長の跡取りには丹羽長秀の息・仙丸がいた。つまり政治的価値がなくなったから廃嫡せよというのだ。秀長は怒りに震えた。

九州攻め前までは秀長と千利休の二人が、秀吉政権の中枢を支えていたが、中央集権化を強める秀吉は奉行衆を重用するようになる。秀吉政権内での溝が生まれ始めていた。

この中で高虎は仙丸を自分の跡取りとして引き取ることにした。

秀長が死んだ。享年五十二才。あとを継いだのは秀保であった。

過去の成功体験に束縛されてきた秀吉は、従来の通り拡大路線を推し進めようとしていた。朝鮮への出兵である。

高虎は一旦帰国してきたが、ここで思いもかけぬ自体が発生した。秀保が殺されたのだ。必死に存続のための運動をしたが、かなわず郡山豊臣家は消滅した。二十一歳の時から二十年間に渡り仕えた主家である。

高虎は城の受け渡しが済むと、高野山へ登った。

秀吉は高虎を高野山から下山させると、伊予国の浮穴、喜多、宇和三郡内六万石の代官に任じた。

そして、伊予七万石の大名となった。これといった大功があったわけではなかった。突然の通達である。恐らくは秀吉は郡山豊臣家を取りつぶしたのに気が咎めたのであろう。

高虎が支配を任せられたのは、南予だった。ここは古来から為政者にとっては治めにくい土地柄であった。ここで拠点を二つ設けることにした。大洲と宇和島である。高虎はもてる築城術を注ぎ込むことにした。

再び朝鮮への出兵である。この前に、高虎は重大な決断をした。徳川家康に弟を人質として送ったのだ。高虎の望む天下の形は豊臣政権にはなかった。

家康にとっても大きな意義があった。以後、家康は高虎をおのが譜代の臣のように扱っていくことになる。

そして、太閤秀吉が死んだ。享年六十二才。

政局が熱くなっていた。前田利家と石田三成、徳川家康のにらみ合いが続き、大坂、伏見の二極を中心に動いていた。

前田利家が死に、政局は一気に加速していく。そして、関ヶ原の戦いを迎え、戦後処理の過程で高虎は伊予半国の二十万石の大封のぬしとなった。この時点で、高虎は人を採用した。その中に渡辺勘兵衛了がいた。

高虎は今治城の築城を始めた。以後、江戸城の縄張り、駿府城の修築などを手がけていく。

高虎は和泉守の名乗りを与えられ、伊勢への転封が決まった。

そして、徳川家康は豊臣秀頼に会ったことにより、本気で豊臣家を潰す決意を固めた。

本書について

火坂雅志
虎の城
祥伝社文庫 計約七八五頁
戦国時代
主人公:藤堂高虎

目次

第一章 落城
第二章 秀長
第三章 新天地
第四章 一色家の姫
第五章 三千石
第六章 米買い
第七章 天王山
第八章 土木の虎
第九章 山霧
第十章 菊の屋形
第十一章 一期一会
第十二章 こごり雲
第十三章 唐入り
第十四章 主家消滅
第十五章 芋掘り坊主
第十六章 密約
第十七章 家康動く
第十八章 猛将左近
第十九章 決戦前夜
第二十章 関ヶ原
第二十一章 江戸幕府
第二十二章 にごり水
第二十三章 津城主
第二十四章 秀頼
第二十五章 戦雲
第二十六章 巨城攻め
第二十七章 炎上
第二十八章 士の覚悟
第二十九章 寒松院
あとがき

登場人物

藤堂高虎(与吉→与右衛門)
お久…妻
藤堂虎高…父
大木長右衛門…若党
居相孫作
服部竹助
前坂主殿…鬼
亀岡式部…鬼
西野主馬…鬼
中井左京…鬼
中川但馬…鬼
仙丸
小堀作助
長井弥二郎
渡辺勘兵衛了
西島八兵衛
美秋ノ御方
徳川家康
本多正信
お奈津ノ方
金地院崇伝
羽柴秀長
羽柴秀吉(豊臣秀吉)
ねね
綾羽
太郎二郎…粉河大工衆棟梁
甲良三郎左衛門光広…大工頭
松蔵…馬淵衆
弥平次…穴太衆
石田三成
磯野員昌
織田信澄
林次郎兵衛…菱屋
蘭叔