藤沢周平の「半生の記」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

この一冊は、まさに、藤沢周平の半生の自伝である。

「半生の記」と「わが思い出の山形」をあわせると、作家になるまでの半生が詳しく描かれている。

そして、最期に付けられている年譜は、作家になってからの足跡がわかるようになっている。

【ピックアップ】

「半生の記」

自己確認

自伝めいたものを書くことについて、今ひとつ気が乗らないのだが、藤沢周平はどのような道筋があって小説家になったのかというのを自身で確かめるには、一通り自身の過去を振り返らないと分からないといって書いているのが本書である。

学校ぎらい

他のエッセーでも書かれているが、藤沢周平は小学校五年生の時に授業中に声を出せなくなるという状態になった。その屈辱感から逃げるためか、代替行為か分からないが、読書量が劇的に増えたと書かれている。

吃音矯正学院

藤沢周平が作家デビューするまでは、教職を経て、業界紙に勤めていたことは知っていたが、それより昔に印刷会社に勤めていたことは知らなかった。そして、会社に勤めながら、夜間の旧制中学校(現在の高校)に通っていたのも興味深い。

敗戦まで

藤沢周平は、印刷会社に勤めていたが、その後再度転職し、生まれた村の役場の職員になっている。その村役場で敗戦を迎える。

湯田川中学校

敗戦後、旧制中学校の卒業を間近にして、進学を決意する。進学先は県内の山形師範学校である。そして、教職に就くのである。

療養所・林間荘

これ以降は、他のエッセーでも書かれているように、肺結核を煩い、闘病生活を経て、業界紙の記者になり、作家生活に入っていくまでの道筋が書かれている。

死と再生

藤沢周平が再婚していたことは知らなかった。最初の妻をガンで亡くしているのである。当時の妻は二十八歳という若さだった。

藤沢周平の初期の作品には、自身も語るように、人には言えない暗い情念が反映されている。この出来事もそうしたことに一つの要因であることを告白している。

「わが思い出の山形」

山形師範学校に通っていた頃の思い出を綴っている。

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本書について

藤沢周平
半生の記
書かれた時期:1990年4月-1994年4月
刊行:1994年9月
文春文庫 約二三五頁

目次

半生の記
自己確認
黄金村
横座のこと
母の家系
小さな罪悪感
「討匪行」
学校ぎらい
吃音矯正学院
敗戦まで
湯田川中学校
療養所・林間荘
回り道
死と再生
わが思い出の山形
記憶について
厳粛な飢え
賛美歌
モク拾い考
済生館
「青春の映画館」
善龍寺さん
須貝さんの二階
三軒目の下宿
ハッピーミシン
詩人
続詩人
仰げば尊し
運動会
乱読の時代
県営グラウンド
にいにい蝉
同人雑誌
村山弁など

年譜

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