時代小説ブームに思うこと(2008年)

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時代小説や歴史小説の絶版本を読む

「時代小説県歴史小説村」では多少の絶版本の紹介をしている。今後の更新の中にも絶版本の紹介を予定している(ずいぶんと先になりそうだが)。

そんな絶版本を読みたい場合にどうしたらいいか?

まず、前提として本を所有したいか、所有しなくてもいいかによって分かれる。また、所有したい場合に、新本か古本かで分かれてくる。

最も簡単なのは、所有しなくていい場合。

つまり、借りるこということなので、選択肢は限られる。というより実質的に図書館から借りるということになるだろう。あとは、図書館が所蔵しているかである。

仮に図書館に所蔵がなかった場合で、どうしても読みたい場合には次に進むことになる。

所有したい、もしくは所有する選択肢しかない場合には、新本か古本の選択肢がある。

簡単なのは新本だ。なぜなら「絶版」なので売っていない。

あとは、気長に復刊などを待つしかない。それが数ヶ月になるのか、数年になるのか、はたまた…。

復刊に関しては「復刊ドットコム」というサイトがあり、復刊の手助けになるかもしれない。一度覗いてみたらいいと思う。

さて、ここからが本題。

所有したい場合で、古本でいいという場合。

「絶版本」を買いたいと考える場合は普通はこの古本を探すことを考えるだろう。

では、どうやって探すか?今は色んなアプローチがある。

一つは従来のように古本屋を探し回ること。もう一つはネット書店で注文すること。いずれも一長一短がある。

古本屋を探し回るのは、労力と時間がかかるというデメリットがあるが、現物を手にとってチェックできるメリットがある。

一方、ネット書店では、労力と時間を節約できるメリットがあるが、現物は来てみないとわからないというデメリットがある。

私なら以下のようにする。

自分の行動範囲内にある古本屋でまずチェックする。私の場合、こういうのはあまり苦にならない。その上で、ダメならネットでチェックする。これを見つけるまで、時間をかけて繰り替えす。

古本屋めぐりもプライオリティを付ける。まずは大手古本のチェーンからみる。なぜなら大手の場合、プレミアム価格がつかないし、あわよくば、超格安で入手できることもある。大手チェーンの場合、ある意味大盤振る舞いなのだ。

古本屋めぐりで、行動範囲内でというのは、できるだけよけいな交通費を出費しないということである。仮に行動範囲以外の古本屋に行って、全くの無駄足だった場合、交通費の無駄ということになる。もしかしたら発送費を払ってでもネットで注文した方がよかったかもしれないということを考えてしまう。

最後に。絶版本を買って読みたい場合、それなりの時間がかかることを覚悟した方がいい。

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現在の時代小説の出版状況を思う

時代小説がブームになり、大手の本屋ではコーナーが設けられたりしている。

私はブームで読んでいるわけではないし、ブームは去るものだと思っているので、現在の状況にあまり関心はない。

関心はないが、時代小説や歴史小説を書く作家が増えてきており、選択肢が増えているのはいいことだと思っている。

とはいえ、乱立気味なのは確かで、毎月出版される新刊の全部を追いかけるのは不可能である。

出版不況といわれているにもかかわらず、毎月の新刊が多い。

時代小説や歴史小説だけでも相当な数になる。

確か時代小説SHOWさんのブログだったと思うが、年間約200冊の時代小説・歴史小説が出版されているそうだ。

ちなみに、トータルの出版点数というのは年間約80,000冊だとNHKのクローズアップ現代でいっていた。

時代小説と歴史小説で年間200冊…

読んでられない。

乱立状況はそのうち解消されていくのだろうが、いい作品は出し続けていってもらいたいと切に願う。

話は変わる。

私は新刊には興味があるが、過去の作品も興味がある。

結局絞って読むしかない。

問題は、どう絞るか。

私はとりあえず「面白そう」と思ったのを読み、それがいたく気に入ったら、「作家攻め」をする。

時代小説や歴史小説を書いている作家というのは、筆の力というのが一定していることが多いので、当たり外れの幅というのが狭い(もちろん、例外はある)。

一旦気に入った作家を見つけたら、とことん追いかけてみて損はない。

上記のスタンスで読むため、私が趣味でやっている「時代小説県歴史小説村」の掲載作家数は少なく、かつ、偏りが出てしまう。

偏りが出るのは作家数だけではない。「時代小説県歴史小説村」では星0から10までの11段階で私の好みを表示しているが、圧倒的に7以上の作品が多い。

理由は簡単で、上記のスタンスから「面白そう」と思うものしか読まないからだ。

何が悲しくて「つまらなそう」なものを読まなければならない。「つまらなそう」な本を読む時間があったら、「面白そう」な他の本を読むのが当然である。

とはいえ「面白そう」と思って読み始めても、「面白くなかった」という作品はあるわけで、そうした作品が星の数の少ないところへ追いやられてしまうのだ。

私自身は「面白い」時代小説や歴史小説を読みたい。ただそれだけだ。

だが、最初に書いたように、現在の新刊の発行状況は凄まじいし、過去の作品というも数多くある。

新刊発行状況に関していえば、私は追いかけるつもりはない。

とはいえ、興味があるのは確かで、そのために前述の「時代小説SHOW」さんや「歴史小説中毒」などのサイトを見ることになる。

だが、お二方のサイトや他のサイトを参考にしても、現在の新刊の全てを把握できるわけではない。

まだまだ紹介されていない時代小説や歴史小説の作家というのは多い。

そうした作家を紹介してくれる新しいサイトが立ち上がってくれると嬉しい。

※2009年11月13日追記

以前「現在の時代小説の出版状況を思う」という記事で、年間約200冊の時代小説・歴史小説が出版されていると書いた。

現在、文庫の時代小説・歴史小説の新刊情報を載せているが、毎月だいたい50冊は出版されている。

えぇ!!!

と、するとだぁ・・・・

文庫だけで年間600冊超の時代小説・歴史小説が出版されていることになる。

多すぎでしょ。いくらなんでも。

歴史小説に見えるものと小説から歴史を学ぶこと

歴史小説に見えるもの

歴史小説に見えるものの一つとして、現在の政権への批判というものがある。

過去の政治や政治家を断ずることによって、現在の政権への批判とするのだ。

最近読んだ本に池宮彰一郎氏の「薩摩奔る」がある。(時代小説県歴史小説村への掲載は相当後の予定)

そこでは、徹底的に石田三成という「官僚」「吏僚」を斬り捨てている。

少し引っ張ってみよう。

吏僚、という化物は、常人ではない。人外と思っていい。自分の処理・処断がどのような迷惑を生じ、時には生活破綻を来すような悲劇となっても、一切関知しようとせず、感情を動かすことをしない。彼らから見れば民間の者は無機物に等しく、おのれらが世を統べるのは至高の行為と、骨の髄までそう思っている。官と民とは生物的に異なると思い、民の求めで官の仕事が曲げられることは、神にもとる行為としか考えない。
ゆえに彼らを人と思ってはいけない。彼らは民から見たら化け物である。
(新潮文庫「島津奔る」上巻、p153)

他でもこの様な記述が多い本であり、徹底的に「官僚」「吏僚」を斬り捨てているのだ。

問題があって、現在では入手ができない作品となっているが、この「官僚」「吏僚」批判には同感できる人は多いのではないかと思う。

小説から歴史を学ぶこと

小説は楽しむものであり、そこから何かを学ぼうとするようなものではないと思っている。

とはいえ、小説から何かを感じ取り、学び取ることができるのも事実であると思う。

では、歴史小説や時代小説からは何を感じ取り何を学ぶことができるのか。

もちろん、題材となっているのが「歴史」なのであるから、そこから感じたり学んだりできるものは「歴史」であろうかと思う。

問題は、それがどれくらい信用できるかというものであろう。

一つの事実として、今の作家は時代考証にかなり力を入れている。

つまり、思っている以上に、その当時の社会状況の説明などが小説の中に盛り込まれているのである。

ただし、先人達が時代考証に力を入れなかったというわけではない。先人達との大きな違いは、歴史研究の進捗度が違うという点にある。

平成になってから、政治史だけでなく、社会史や民俗史などの社会風俗を扱った分野の研究が急速に進んだ。とはいえ、経済史の研究はまだまだのようではあるが…。

また、時代小説や歴史小説を読む人が、よりリアリティを求めるようになってきたということもあるだろう。

いずれにしても、最新の研究が小説に反映されているのが、現在の時代小説であり歴史小説なのである。

読んでみれば分かるが、現在の時代小説や歴史小説には、われわれが通常の学校教育では学んでこなかったような事実がてんこ盛りである。

それは、経済の話しであったり、制度の話しであったり、生活の話しであったりする。

そこからは、現在と過去の状況を比較してみて、なにかしら感じ取ったり学び取ったりできるものがあるはずである。

興味を覚えるようになれば、さらに深く学ぶために、専門書をくくってみるのもいいだろう。

とはいえ、時代考証に力をほとんど入れていない作家もいるのも事実である。

では、時代考証に力を入れている作家と、そうでない作家との見分け方はどうするか?

一つの方法は、具体的な年号が記されているかどうかにある。

年号が記されていれば、その時の政治家や政策、事件、出来事、文化…などを書かざるを得ない。

必然と時代考証をせざるを得ないのである。

もっとも、時代考証がしっかりしているかどうかというのと、面白いかどうかというのは、全くの別物であるから、必ずしも時代考証がしっかりしていればいいというわけでもない。

ただ、小説から歴史を学んでみたいのであれば、時代考証のしっかりしていそうな本を読むことをオススメする。

今こそ新たな時代小説・歴史小説ガイドブックを

時代小説や歴史小説というのは、はじめて読む人、あまり読んだことがない人、にとっては取っつきにくいジャンルではないかと思う。

平成になってから数多くの時代小説・歴史小説作家が出てきている状況をふまえるとなおさらな気がする。

かくいう私も、知らない作家というのが数多い。

さらに、時代小説・歴史小説というのは、他分野で巨匠といわれる作家もいくつも作品を書いており、さらには、その系譜自体が明治時代まで遡れ、現在なお読むことができるジャンルだけに始末が悪い。

始末が悪いというのは、現役の作家のみならず、既に亡くなった作家の作品も数多くあり、それが思いのほか入手できたりしてしまうからである。

なおさら取っつきにくくなっている要因ではないかと思う。

そこで便利なのがガイドブックだろう。

古今東西の作家とその代表作の一覧を掲載したもの…というのがあれば理想的なのだが、そこまでのものは求めない。

私の手元にあるもので、とても重宝なのが、辰巳出版のタツミムックからでている「読んで悔いなし!平成時代小説」というムックである。新たな作家に挑む時に参考にさせてもらっている。

百作家百冊というのが基本で、作家一人につき一冊紹介している。

他にも色んな斬り口の記事があるので、トータルではもっと多くの本が紹介されている。

残念なことに現時点では絶版で入手できない。

このムックが出されたのが平成17年。

その後に時代小説・歴史小説を特集した月刊誌などはあったが、正直今一つの内容である。

そろそろ新しいものが出てもいいのではないか?

私の希望としては、上記に述べたように、古今東西の作家とその著作一覧を掲載してくれているものが出てくれるのが嬉しい。

一覧だけでは寂しいだろうから、その作家の経歴や作風などを記載してくれてもいいと思うが、特定の作品の内容を紹介するなどということはやめて欲しい。実はそうしたガイドブックがあるのだが、実に使いづらい。

百鬼丸と時代小説

百鬼丸といっても手塚治虫氏の漫画「どろろ」の登場人物のことではない。

切り絵作家の百鬼丸氏のことである。

様々な時代小説の表紙を独特の切り絵で彩っており、その表紙を見るだけでも、何やら楽しそうに見えてしまうものである。

表紙も重要な「内容」の一つ。

表紙を見て、何となく手に取るということもあるだろう。

時代小説や歴史小説についていえば、最近は文庫書き下ろしも多くなっており、他の作品との差をつけるために様々な工夫を凝らすようになってきている。

表紙もそうした工夫の一つであろう。

年77,000冊って、そんなに出されても読めません

売り上げとしては毎年の右肩下がりにもかかわらず、2000年を過ぎた頃から年間の発行点数が7万冊を超え、売り上げとは反比例して発行点数だけが右肩あがりの出版業界。

約6割が雑誌のようだが、とすると、残りの28,000以上が書籍となるわけだ。

歴史小説・時代小説だけに限ってみても、文庫だけでも年間200以上の点数が出版されており、その数の多さにただただ唖然とする。

こんなに出されても読めません!

そもそも雑誌のような一過性の情報というのは、ネットに完全移行してしまった方が出版社のためにもいいように思うのだが、何を血迷ってそんなに出しているのかね?

雑誌は新聞同様に、ほとんどが広告収入でまかなわれているのだろうから、広告収入という点ではネットに移行しても問題ないはず。それに、ネットの方でも展開すれば、雑誌媒体の方はフリーペーパー同様にタダにできるんじゃないの?

まぁ、それはさておき…。

こうした雑誌以外に年間28,000点も書籍を出すなんて…。

ちなみに、人が一生でどのくらいの本を読めるのか?

特殊な事情を除き、日常生活の中で読めるのは、1日に多くて2冊から3冊だろうと思う。これすら、かなり多い数である。

仮に1日3冊として、1年間で1,095冊。平均寿命をざっくりと80歳として、本を読み始めるのを就学年齢の6歳からと考えた場合、本を読む期間は74年間。

つまり、1,095冊×74年間=81,030冊となる。

…非現実的な数値だな。

もう少し、現実的な数値で考えてみよう。

身近な人で比較的本を読んでいると思う人間ですら、月に10冊を越えるかどうか。きっとそれだけ読んでいれば、普通には「本をいっぱい読んでいるね」と言われるだろうと思う。

月10冊だと年間120冊。これでも結構な冊数ではないだろうか。

これに一生の年数をかければよいのだが、一生続けて本を読み続ける人を想定するのもおかしな話しで、上記の74年間を丸々当てはめるのもどうかとは思うが、仮に当てはめてみると、120冊×74年=8,880冊となる。

雑誌を含めたり、書籍の内でも漫画を含めれば、もう少し膨らむのだろうが、それでも1万前後止まりだと思う。

…根拠はないが、何となく妥当な気がする。

とすると、書籍だけで年間28,000点を出しても、それだけで人の一生に読む書籍の点数を超えてしまっているわけで、全く読まれない書籍もあるだろう。

何のために発行したのかすらわからない書籍も数多くあるということになる。

何のために発行したのかすらわからない書籍を含めて、その中から、時間を費やしてでも読むに値する本、是が非でも読みたい本、面白い本を探し出すのは困難極まりない。

出版社と編集者は、こうした判断をし易くするために、最低でも書籍の内容がどのようなものであるのかを、読者にわかるようにする努力をしなければならない。

例えば、単行本でも内容がわかるようにあらすじを書いてみるなどの、最低限の工夫をして欲しい。

こうした工夫を考えるのが編集者達の仕事でもある。編集だけをしていればいい時代は遙か昔に過ぎ去っていると思うのだけれどもねぇ?

また、出版社も努力すべき点は数多くある。

例えば、それは採算のとれる印刷の最低単位を数百冊や数千冊ではなく、1冊からのオンデマンド印刷からでもとれるようにすることである。少なくともこれに近い数値に近付ける努力をすべきである。

これができれば、余分な在庫が不要になり、再販制度も不要になる。また、過去の作品も復刊もし易くなる。いや復刊という言葉すらなくなる。

他にも工夫などいっぱいある。

まだまだ出版業界には努力すべき点が多くあるのだが、旧泰然とした考えの持ち主ばかりが集まっているような気がしてならない。

硬直化した出版業界に新風を送り込む人物が出てこないものか?

時代小説の舞台となる時代

歴史小説と違い、時代小説の多くは江戸時代を舞台にしたものが多い。それも江戸後期から幕末に近い時代を舞台にしたものが多い。時代設定が明確にされていない場合においても、江戸後期から幕末を想定していると思って構わないだろう。

江戸後期から幕末が舞台になる決定的な点は史料の多さである。

逆に江戸後期から幕末以前の時代が舞台になりにくいのは史料が少ないからである。

江戸時代においてですら、江戸の前期から中期にかけては想像以上に史料が少ないという。日常でどのような服を着ていたのかというのも不明な部分が多いようだ。ましてや日々の生活の風景というものが見えてこないらしい。

こうなってしまうと時代小説の舞台にはなりにくい。

歴史小説は歴史上の人物や事件・出来事を小説にする。だから、その人物の事績や事件・出来事に関する史料をあたればいいのに対して、時代小説は「舞台」だけを借りて、架空の人物を描く。

言い方を変えると、歴史小説は政治史に基づいて成り立っているのに対して、時代小説は社会史・民俗史などを基にして成り立っている。

つまり、歴史小説ではその時代に生きた人達の日々の生活感というものを描く必要がないのに対して、時代小説はその時代に生きた人々の息づかいを感じさせるようなものでなければならないということでもある。

結果として、人々が生きていた息づかいを感じ取れる時代を舞台にするのなら、より現代に近い時代を舞台にせざるを得なくなる。

そして人々の生活が分かる時代となると、史料の多い江戸後期から幕末しかないということなのである。

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