
興福寺は藤原氏の氏寺として始まり、春日大社と深い関係を結びながら大和国を動かすほどの力を持ち、阿修羅像をはじめとする仏教美術を生み出してきた古寺です。
奈良公園の中心部に五重塔や中金堂、東金堂、南円堂などが並ぶ興福寺は、法相宗の大本山です。
奈良を代表する寺院の一つですが、歴史をたどると、興福寺は単なる一寺院ではありませんでした。
政治を動かした藤原氏の氏寺であり、春日大社と一体となった神仏習合の中心でもあり、鎌倉時代には運慶ら優れた仏師を生み出した文化の拠点でもありました。

春日大社と興福寺は、もともと別々ではなかった

春日大社は、藤原氏の氏神を祀る神社として発展しました。一方、興福寺は藤原氏の氏寺です。
両者は長い年月をかけて強く結びつき、神仏習合の関係を築いていきました。
平安時代になると、興福寺は春日社の祭祀にも深く関わるようになり、神社と寺院が一体となった信仰が形成されました。
興福寺では春日明神を仏法を守護する神として捉え、春日社で僧侶が読経することも行われました。
1135年には春日若宮が創設され、その後も興福寺と春日社の結びつきは江戸時代末まで続きました。
現在でも興福寺では、毎年1月2日に僧侶が春日大社へ参拝する春日社参式が行われています。
明治時代の神仏分離以前には当たり前だった神仏習合の姿を、現代に見ることができる行事です。

法相宗の大本山

教えの中心となるのが唯識という思想です。
唯識は5世紀ごろのインドで活躍した無著・世親の兄弟によって大成されました。
教えは中国の玄奘三蔵によってインドから中国へ伝えられました。
玄奘の弟子である慈恩大師・基がその教えを体系化し、日本にも伝わりました。
北円堂の本尊・弥勒如来の左右に立つ無著・世親像は、この法相教学の源流を象徴する像です。
鎌倉時代の仏師、運慶の指導のもと、無著像を運助、世親像を運賀が担当したとされています。
興福寺の歴史
始まりは藤原鎌足の病気平癒を願った寺
興福寺の起源は、現在の奈良ではありません。
669年、藤原鎌足が病に倒れた際、妻の鏡大王が夫の回復を願って山城国の山階に建てた山階寺が興福寺の始まりとされています。
そこには鎌足が造立した釈迦三尊像や四天王像が安置されました。
藤原鎌足は中臣鎌足といい、中大兄皇子(後の天智天皇)とともに645年の乙巳の変を起こし、蘇我氏を倒した人物として知られています。
その後、天智天皇から「藤原」の姓を与えられ、後の藤原氏の祖となりました。
興福寺は、藤原氏の始まりとほぼ同時期に誕生した寺院です。
山階寺はその後、飛鳥の厩坂へ移され、厩坂寺と呼ばれるようになります。
710年、平城京への遷都にともなって藤原不比等が現在の奈良の地へ移し、寺名を興福寺としました。
藤原鎌足の息子である藤原不比等は、律令国家の形成に大きな役割を果たした政治家でした。
興福寺はその不比等によって平城京に移され、藤原氏の氏寺として本格的に発展していきます。
藤原氏の寺だからこそ、皇族も堂塔を建立した

興福寺の伽藍を見ていくと、藤原氏だけでなく天皇や皇后など、多くの歴史上の人物が登場します。
721年には、元明天皇と元正天皇が藤原不比等の一周忌を弔うために北円堂を建立しました。
平城京を見渡せる場所に建てられた北円堂は、現在も残る興福寺最古の建物で、鎌倉時代に再建されたものが国宝となっています。
726年には聖武天皇が東金堂を建立し、730年には光明皇后が五重塔を建立しました。
光明皇后は、母・橘三千代の菩提を弔うため西金堂を建立しています。
現在も国宝館で見ることのできる八部衆像や十大弟子像が安置されていました。
興福寺を代表する仏像として知られる阿修羅像も、この西金堂に安置されていた像の一つです。
阿修羅像は、もともと西金堂の一員でした
興福寺を訪れる多くの人が目当てにする阿修羅像は、現在は国宝館に安置されています。
高さ約153センチの三面六臂の像で、奈良時代の乾漆造による代表的な仏像です。
少年のようにも見える細身の姿と、三つの顔がそれぞれ異なる表情を見せる姿が印象的です。
もともとは阿修羅だけが特別に造られたわけではありません。
光明皇后が母・橘三千代のために建立した西金堂に安置された、八部衆の一体でした。
阿修羅は、もともとインドの神話に登場する存在でした。
仏教に取り入れられる過程で、仏法を守護する存在として位置づけられます。
寺なのに、大和国を支配するほどの力を持った

平安時代の興福寺は、藤原氏の勢力が拡大するとともに、興福寺も大きな権力を持つようになります。
春日社との一体化も進み、興福寺は大和国に大きな影響力を持つ寺院へと発展しました。
象徴が僧兵です。興福寺は武装した僧侶の集団を持ち、朝廷に対して強い要求を行うこともありました。
平重衡の南都焼討ちと、興福寺の再建

興福寺の歴史を大きく変えた事件が、1180年の南都焼討ちです。
源平争乱のさなか、平清盛の子・平重衡が率いる軍勢が奈良を攻め、東大寺や興福寺を焼き払いました。
興福寺もほとんどの堂宇を失う大きな被害を受けました。
しかし、その後すぐに再建が始まります。
鎌倉時代の復興では、東大寺だけでなく興福寺も大規模な再建が行われました。
この時代に造られた代表的な建築が北円堂です。
さらに興福寺には、運慶をはじめとする慶派の仏師たちが関わり、無著・世親像など、鎌倉彫刻を代表する作品が生み出されました。
山田寺からやって来た「仏頭」
国宝の銅造仏頭は、もともと飛鳥の山田寺にあった薬師三尊像の中尊の頭部です。
鎌倉時代の復興の際、興福寺の東金堂の本尊として迎えられました。
1187年には興福寺の僧侶たちが山田寺へ赴き、この像を運び出して東金堂に安置したとされています。
山田寺は、蘇我倉山田石川麻呂ゆかりの寺院です。
藤原氏と深く関係する寺院の中に、蘇我氏と関係する山田寺の仏像が受け継がれていることになります。
明治時代、興福寺は一度「消滅」の危機にあった

1868年の神仏分離令によって、長い間一体となっていた春日社と興福寺の関係にも大きな変化が起こりました。
社寺領の没収や廃仏毀釈の影響を受け、興福寺は深刻な苦境に陥ります。
1870年には寺地の大部分を失い、1874年には食堂などの建物も取り壊されました。1880年には旧境内が奈良公園となっています。
奈良公園の中に興福寺があるように見えますが、かつては現在の奈良公園を含む広大な土地が興福寺と春日社の一体的な空間でした。
約300年ぶりに復活した中金堂
2018年に中金堂が再建されました。
中金堂は興福寺の伽藍の中心に位置する最も重要な堂宇です。
創建以来何度も焼失と再建を繰り返し、1717年の火災で焼失した後は、本格的な再建が長く実現しませんでした。
1819年には規模を縮小した仮堂が建てられましたが、これも老朽化が進み、2000年に解体されました。
その後、発掘調査などをもとに復元工事が進められ、2018年に天平時代の姿を意識した中金堂が再建されました。
猿沢池も興福寺とつながっている
猿沢池は現在、奈良を代表する景観の一つですが、もともとは興福寺が「放生会」のために造った池とされています。
放生会とは、捕らえた生き物を池や野に放して生命を救う仏教行事です。

