玉崎神社の歴史
景行天皇40年の創建です。
日本武尊の東征の際、相模から上総に苦労して渡り(蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ))、南へ下り、葦浦(鴨川市吉浦)を経由して玉の浦(九十九里浜)にやってきました。
日本武尊は、それまでの苦労から海上平安、夷賊鎮定のために、玉の浦の東端「玉ヶ崎」に、海神の娘であり神武天皇の母である玉依姫尊を祀ったと伝えられます。
「玉ヶ崎」を「竜王岬」と言うようになったのは、海神を竜宮の神に付会して「竜王の鎮まり坐す崎」としたためだそうです。
下総国二之宮なのか?
「神道集」に玉崎大明神者、此国二宮、同本地十一面観音とあり下総国二宮とする説があります。
戦国時代の永禄期には上総国一ノ宮・玉前神社が戦火を避けて神体を玉崎神社に移したとも伝えられています。
奇しくも両神社とも読み方は「たまさきじんじゃ」です。
奇しくもなのかどうかは不明ですが…。
中世以降
中世には、三崎庄横根郷玉ヶ崎大明神、玉の浦総社玉ヶ崎大明神等と称せられました。
平貞盛、源頼義、源義家、源頼朝、日野俊基、千葉常胤等が参拝し、武人の崇敬を集めました。
江戸時代になると、平田篤胤、平田鐵胤、斉藤彦麿、高田与清、大国隆正のような文人が参詣しています。平田篤胤ゆかりの歌碑が残されています。
明治に神社名を「玉崎神社」と改称しました。
玉崎神社の見どころ
一の鳥居と社号標
二の鳥居
手水舎
拝殿と本殿
本殿を右手から
社務所
石塁
稲荷神社
摂社・末社
厳島神社
金毘羅神社
招魂社
大漁稲荷神社
三峯神社
八重垣神社
史蹟
天の石笛
竹久夢二文学碑
昭和天皇御製碑
玉崎神社の概要
社格など
古代社格制度 | ― |
中世社格制度 | 下総国二宮(論社) |
近代社格制度 | 郷社 |
現代の制度 | ― |
創建 | 景行天皇40年 |
主祭神 | 玉依姫命 |
備考 | 本殿の様式:流造 例祭:旧暦の4月1日 |
文化財
県指定
有形文化財 | 本殿(建造物)…元禄年間(1688年~1704年)建造。一間社流造。 拝殿(建造物)…天保年間(1830年~1844年)の造営。 古瀬戸狛犬(工芸品) |
市指定
有形文化財 | 石塁 天の石笛 |
住所と地図
所在地: 〒289-2705 千葉県旭市飯岡2126−1
電話: 0479-57-2278
飯岡助五郎とは?
玉崎神社を中心としたこの地域ゆかりの人物として江戸時代の飯岡助五郎がいます。
浪曲「天保水滸伝」の悪役として知られます。
古くから漁業で繁栄した旭市一帯の網元として漁業経営を行い、海岸に護岸を築くなど社会政策にも功労がありました。
網元として成功するかたわら、「十手持ち」として近隣の治安にあたるほか、江戸相撲を興行するなど、地域振興に活躍した人物でした。
晩年は近所の子供たちから「川端(助五郎の住居があった地名)のおじいさん」と親しまれる好々爺でした。
安政6年(1859年)に67歳で病没します。
地元では「畳の上で死んだ侠客」と呼ばれています。
墓は光台寺にあります。
さて、天保水滸伝では、笹川(現在の東庄町)の笹川繁蔵一派との勢力争いが「大利根の決闘」として語られています。
決闘で飯岡方は笹川方に大敗しますが、のちに繁蔵を討ち果たします。
討ち取られた繁蔵の首は飯岡助五郎によって、定慶寺の境内に丁重に葬られたとされます。
この辺りの時代を描いた作品として下記の作品があります。
略歴
寛政4年、相模国公郷村山崎(現在の神奈川県横須賀市三春町)で半農半漁を営む石渡助右衛門の長男として生まれます。
幼い頃から大力で知られ、相撲取りの道を歩もうとするが、親方の急死により力士をあきらめて廃業しました。
その後、地引き網で大漁景気に沸いていた九十九里浜に流れてきました。
下総国飯岡(現在の千葉県旭市飯岡)に出稼ぎに出て、飯岡に定着します。
相撲の修業時代の大力で、飯岡の玉崎明神祭礼の奉納相撲で名前を売り、流れついてくるやくざ者を叩きのめして男を上げました。
やがて、銚子から飯岡にかけて縄張りを持っていた銚子の五郎蔵の代貸となりました。
文政5年(1822年)には五郎蔵から飯岡一帯の縄張りを譲り受け、網元の事業も成功させて、房総半島の大親分となります。
この頃には寂れかけていた飯岡の復興に尽力しました。
漁港を整備し、人口減を食い止めるために故郷の三浦半島から漁師の二男や三男を大量に移住させました。
笹川(現在の千葉県香取郡東庄町)の笹川繁蔵(15歳年下)と知り合い、初めのうちは関係は極めて良好でした。
ですが、関東取締出役制度(通称、八州回り)が整備され、助五郎が十手を託され岡っ引になると関係が悪くなっていきます。
八州回りについては佐藤雅美の「八州廻り桑山十兵」シリーズがおススメです。
互いの縄張りが隣接するようになると、子分たち同志の抗争が発生します。
やがて、八州回りから繁蔵逮捕の命令が下されます。
助五郎は子分20数名を引き連れて、繁蔵逮捕に向かいますが、反撃にあって手勢の半数を失うという大敗北を喫します。
「大利根河原の決闘」と呼ばれます。
逮捕に失敗した助五郎は、幕府により入牢させられます。
繁蔵は逮捕を免れるために奥州方面に逃げました。
弘化4年(1847年)に故郷に戻ったところを、助五郎の子分3名(堺屋与助、三浦屋孫次郎、成田の甚蔵)に闇打ちされて殺されます。
笹川一家と飯岡一家の抗争は続きますが、八州回りが付く助五郎一家が次第に追い詰めます。
嘉永2年(1849年)、繁蔵の跡を継いだ勢力富五郎が自殺して決着します。
嘉永3年(1850年)に宝井琴凌が嘉永版「天保水滸伝」として、繁蔵を美青年の悲劇の若親分、助五郎を悪知恵の働く横暴な悪親分という図式が出来上がりました。