
野口王墓(のぐちのおうのはか)
天武・持統天皇陵

天武・持統天皇陵は、奈良県明日香村にある古墳で、宮内庁によって「檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)」として管理されています。
一般には「天武・持統天皇陵」と呼ばれています。
7世紀後半(飛鳥時代)の日本を大きく変えた天武天皇と、その皇后で後に天皇となった持統天皇が合葬された陵墓とされています。
「飛鳥・藤原の宮都」として世界遺産に登録されています。
八角形墳

現在の陵は、東西約50m、南北約45mほどの八角形墳と考えられています。
八角形の墳墓は天皇を特別な存在として表現する意図があったと考えられています。
天武・持統天皇陵は、舒明天皇陵や斉明天皇陵などとともに、飛鳥時代後期の八角墳の系譜に位置づけられます。
古墳は古墳時代前期・中期の巨大な前方後円墳から、7世紀後半には巨大さから形そのものによって被葬者の政治的・宗教的な地位を表現するものへと変化していきました。
陵墓は宮内庁によって管理されているため、墳丘そのものに立ち入ることはできません。
参道から陵を眺めることになりますが、墳丘は木々に覆われた小高い丘にしか見えません。

天武天皇と持統天皇


天武天皇
天武天皇は、在位673~686年。
即位前には「大海人皇子(おおあまのおうじ)」と呼ばれていました。
兄である天智天皇の死後、皇位継承をめぐる対立が深まり、672年に壬申の乱が起こります。
大海人皇子は東国などの勢力を味方につけて勝利し、翌673年に即位して天武天皇となりました。
壬申の乱は、日本古代史における最大級の内戦の一つであり、その勝利によって成立した天武朝は、その後の日本の国家制度に大きな影響を与えることになります。
天武天皇が目指したのは、天皇を中心とする強力な国家体制でした。
豪族がそれぞれの勢力を持っていた従来の政治から、天皇を頂点とする中央集権的な政治へと移行する動きが加速します。
官僚制度の整備、身分制度の再編、国家的な祭祀の整備などが進められ、後の律令国家へとつながる基盤が築かれていきました。
天武天皇は歴史の編纂にも関心を持ち、『帝紀』『旧辞』などの整理を命じたとされます。後の『古事記』や『日本書紀』の成立にもつながっていきます。
持統天皇
天武天皇の死後、その皇后であった鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)が即位し、持統天皇となります。
持統天皇は、天武天皇の政策を受け継ぎながら、国家体制をさらに整えていきました。
特に重要なのが、694年に藤原京へ都を移したことです。
藤原京は、それまでの飛鳥の宮とは異なり、条坊制による計画的な都城として造営されました。
中国大陸の都城を意識した都市計画を取り入れたと考えられ、日本が本格的な律令国家へと歩み始めたことを象徴しています。
持統天皇は、皇位継承という点でも重要な役割を果たしました。
天武天皇との間に生まれた草壁皇子を皇太子としましたが、草壁皇子は即位することなく亡くなります。
その後、持統天皇は孫にあたる軽皇子を皇太子とし、文武天皇として即位させました。
持統天皇自身は譲位後も政治的な影響力を保ち、上皇として文武天皇を支えました。
天武天皇の葬儀は686年に行われましたが、持統天皇の時代に陵が整えられ、持統天皇自身も702年に亡くなると、この陵に合葬されたとされています。
