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大多喜城の歴史と見どころは?(千葉県夷隅郡大多喜町)徳川四天王・本多忠勝が築いた城

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大多喜町にある平山城です。

2017年(平成29年)4月6日に「続日本100名城」(122番)に選定されました。

最寄りの駅は大多喜駅ですが、長い坂道を上ることになりますので、車で行くのがおすすめです。

車で行く場合、駐車場があります。そこから徒歩5分程度で再建天守にたどり着きます。

大多喜町では大多喜城ゆかりの「本多忠勝・忠朝」親子を大河ドラマに誘致するために活動しているようです。

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戦国時代の創築と初期の歴史

大多喜城の始まり

大多喜城の始まりは、戦国時代の大永元年(1521年)、真里谷信清(まりやつのぶきよ)によって築かれた「小田喜城(おだきじょう)」と考えらえています。

上総国(現在の千葉県中部)の地を治めるための拠点として築かれましたが、天文13年(1544年)に里見氏の家臣である正木時茂(まさきときしげ)に奪われ、里見氏の上総国東部支配の拠点となります。

しかし、里見義頼(よしより)との内紛が発生した1581年、正木家内部にも混乱が生じ、城は再び変遷の時期を迎えます。

徳川政権成立と本多忠勝の大多喜入封

戦国時代末、豊臣秀吉による天下統一が進む中、1590年(天正18年)の小田原征伐によって北条氏が滅亡すると、里見氏は秀吉によって上総国を没収されます。

この時、上総国は徳川家康に与えられ、家康の支配下で大多喜城は新たな役割を持つことになりました。

徳川家康は配下の有力な武将を各地の重要拠点に配置して支配体制を盤石にする策を取りました。

その一人が、家康四天王として知られる猛将、本多忠勝(ほんだただかつ)です。

忠勝は戦国期において数々の戦功を上げ、「生涯57の戦いで傷一つ負わなかった」とも言われる武将で、家康からも絶大な信頼を受けていました。

1590年に徳川家康が関東に移封された後、大多喜城は上総国支配の拠点として忠勝に与えられ、10万石の大名領として大多喜藩が成立しました。

城は彼の指揮の下で大規模な改修が進められ、戦国期の城郭から近世城郭へと生まれ変わりました。

忠勝は城下町の整備にも取り組み、城郭機能と地域経済の基盤づくりを行ったのです。

忠勝が大多喜城主として在城したのは比較的短い期間で、関ヶ原の戦い(1600年)後、忠勝は桑名城へと移封となりました。

代わって忠勝の次男・本多忠朝(ほんだただとも)が旧領の大多喜城を相続し、これを引き続き治めることとなります。

忠勝の死後も本多氏は3代にわたって大多喜城を治め、城下の基礎を維持しました。

江戸時代の変遷と没落

江戸時代に入ると、大多喜城は譜代大名の居城として支配の中心となりましたが、城郭そのものは大規模な戦闘を経験することなく、比較的平穏な時代を迎えます。

城の重要性が相対的に薄れる中、大多喜藩の石高は次第に減少し、規模縮小と藩財政の困窮が続きました。

このため、17世紀後半には城の主要施設の多くが荒廃し、幕府から再建命令を受けても実行が困難な状況となっていました。

1842年(天保13年)には天守が焼失し、その後本格的な再建は行われませんでした。

大多喜城は幕末までに象徴的な建物が少ない城郭となっていったのです。

明治以降の変化と復興

明治維新によって廃藩置県(1871年)が行われると、大多喜城は正式に廃城となり、主要建物は取り壊されました。

その後本丸跡などは削平されるなど、城郭としての姿は大きく失われましたが、1966年には本丸跡が千葉県の史跡に指定され、歴史的価値が見直されました。

1975年(昭和50年)には、当時の天保年間の図面を基にした復興天守が本丸に再建され、現在は千葉県立中央博物館大多喜城分館として地域の歴史資料館と観光施設として活用されています。

天守内部では房総地方の中世・近世の史料や武具、城郭に関する展示が行われていました

大多喜城の見どころ

復興天守(再建天守)

1975年に再建された鉄筋コンクリート造の天守は、城郭全体を見渡す象徴的な構造物です。

    建物内は博物館として利用され、地域の歴史や武具・資料が展示されていました。周囲の城下町の風景を一望できるスポットとしても人気です。

    なお、現在は長期休館中で、将来的に大多喜町の町営博物館への移行が計画されています。

    本丸跡と大井戸

    本丸跡にはかつての本丸の土塁や石垣の基礎が残り、往時の規模を感じ取ることができます。

      大井戸は周囲17m、深さ約20mという巨大な井戸で、戦国期の築城当初に掘られたとされる歴史的な遺構です。

      古くから枯れることがなかったという伝承もあり、戦国期の生活・防衛を想像させる見どころのひとつです。

      現存する薬医門

      二の丸御殿の門として使われた薬医門(やくいもん)が現存し、当時の建造物の姿を伝えています。

        この門は現在大多喜高校の敷地内に移築保存されており、地域文化財としても価値があります。

        堀跡・土塁と城郭遺構

        城跡周囲には往時の堀跡や土塁が残り、戦国城郭としての構造を学ぶ手掛かりになっています。

        特に本丸周辺は地形を巧みに利用した縄張が特徴で、攻防を念頭に置いた連郭式の配置が伺えます。