山本周五郎の「正雪記」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

慶安四年(一六五一)に由井正雪の乱ともいわれる慶安の変を起こし駿府にて自害した由井正雪を主人公とした小説。

駿府に生まれ、紺屋のせがれという説もあるが、はっきりとしたことは分かっておらず、事件以前の半生は詳しくは分かっていないらしい。

この小説では、由比の染め物職人の息子として設定しており、幼少期からの前半生を、当時起きた事件などを織り込んで進めている。

幕府の転覆をもくらんだとされる由井正雪だが、本書ではその説を採用していない。むしろ、浪人が増えすぎたことによる政情不安定を一掃するために、時の権力者の松平信綱がでっち上げた事件という見方に近いかもしれない。

それより、本書の由井正雪は、浪人救済のための具体的な施策を模索する姿が強く描かれている。

「…(略)…浪人たちが人間らしく生きてゆけるように、幕府の政策の改廃とかれらに生業を与えることを仕事にしてゆくつもりです」

という点でもその姿勢が鮮明である。

本書での正雪は具体的な施策をもっているのだが、それがどういうものなのかは本書を読んでのお楽しみである。

さて、正雪が浪人救済を考えるようになったのは、正雪が江戸に来たばかりの頃に見たある浪人の姿があった。

その浪人は次のように叫ぶ。

「侍だって人間に変りはない、侍だって妻子を食わせなければならない、浪人して扶持にはなれれば、たとえ人足をしても侍だって生きてゆかなければならない、そうじゃないだろうか」と彼は悲鳴のように叫び続けた。

「天下が泰平と定まってから、武家では人減らしをするばかりだ、次から次へと大名が潰される、扶持にありつく望みのない浪人が殖えるばかりだ、独り者はまだいいとしても、妻子ある者はどうしたらいいのか、扶持にありつけない、人足稼ぎもできないとしたら、いったいどうして生きていったらいいのか、妻子を抱えたまま死んでしまえとでもいうのだろうか」

こうした浪人が多かった時代なのである。

福島、加藤、蒲生という大名が潰され、浪人があふれかえり、徳川政権がようやく定まりかけているが、不満がたまってきている時代であった。

天草では島原の乱があり、徳川政権に少なからず動揺を与えている。

ちなみに、本書では、島原の乱は宗教戦ではなく、領主松倉氏の暴政に対する百姓一揆と見ている。

本書のように、江戸時代の初期を描いた小説というのは少なく、当然その当時の町並みや風俗を描いているというのも少ない。

だから、本書で描かれているものは興味を惹くものが多かった。

寛永元年の頃、主要な表通りには商家が軒を並べており、店は少なくなかったが、横丁や路地裏の家は板葺きの狭くて小さい長屋建てが多く、下町では埋立地のため至る所に空き地があり、葦が生え、水のたまった湿地があった。

時代小説などではおなじみの本所や深川あたりのことであろう。

そして、風俗もまだ質素で、着物はたいてい麻か葛布で、木綿は高価だった。冬になると男は革足袋に河の打掛、革の袴というのが贅沢とされていた。

女は紫革の足袋が流行で、帯は細く鯨尺で幅は二寸くらい、芯は紙であった。礼服の場合、もっと細いのをこの帯の後ろに結んで垂らし、付け帯といったそうだ。金襴を最上とし、黒地に梅桜松など織出したのを鉢の木帯といって、婦人たちにもてはやされたこともあったという。

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内容/あらすじ/ネタバレ

大阪の戦いが終わって十年そこそこの頃。由比の染め物職人の息子・小太郎は同じ名前の少年とその父親とあることがあり出会うが、やがて分かれることになった。

小太郎は久米と名を変え、細工師だという又兵衛に頼んで江戸に連れて行ってもらうことにした。

久米は石川主税助という浪人のもとで楠木流兵学の講義を聴き、他にも勉強を続けた。久米が江戸に来たのは侍になるためであった。

だが、生きるために足かけ四年日雇い稼ぎをして暮らした。そして、めざましく発展していく街の様子や、没落し繁栄していく人たちの生活を見た。特に貧しい人たちや没落して浮かび上がる希望のない人たちの中で、その嘆きや絶望の声を聞いた。

やがて、久米は石川主税助のところに身を寄せ、元服して久米与四郎と名乗ることになる。

主税助にははんという娘がいた。与四郎ははんに心惹かれるものがあった。

石川家に思いがけない来客があった。紀伊家から呼ばれたのだ。主税助の代理として与四郎が向かったが、ここで与四郎は付家老の安藤帯刀から一喝されほうほうの体で逃げ帰ってしまう。

このことがあって、与四郎は旅に出て修行することにした。

二年放浪し、木曾へ入った時のこと。勾坂喜兵衛という男と味平兵庫という浪人と知り合う。

勾坂喜兵衛が熱心に自分の家に寄ってくれというので、与四郎と味平兵庫はしばらく滞在することにした。ここで、与四郎は喜兵衛の妹・小松と出会う。

ある日小松が与四郎を言い伝えのある洞窟へと連れ出した。

与四郎は洞窟の中から必死に出ようとして、気がついたら山小屋の中にいた。助かったのだ。山小屋の主は勘次といった。

勘次は紫金洞という洞窟を探しているという。それは勾坂家に伝わる埋蔵金の伝説である。そして、この伝説は本当であったことを与四郎は知る。

江戸では石川主税助が亡くなった。はんは移り住み、近所の子女に手習いを教え初めた。

西の方では肥前の天草で切支丹の暴徒が謀叛の旗揚げをしたという話が伝わってきた。

この戦場に与四郎はいた。ここで与四郎は味平兵庫、勾坂喜兵衛、金井半兵衛らに再会する。そして丸橋忠也という男とも出会う。

この戦場には浪人が数多くいた。徳川の天下になり、次々と大藩が潰されている中、浪人の数は増える一方である。仕官の道は厳しく、こうした戦場はまさに千載一遇の好機といえた。

そこで、与四郎は三軍の総帥である松平信綱にひそかに会い、ある進言をする。

はんは金座の後藤家の分家である銭座の肝煎をしている後藤庄之助の息子・庄三郎の嫁にとこわれた。だが、はんは断った。与四郎がいたからだ。

島原の合戦は、幕府の軍勢が大勝したという報知があり、市中は活気だったいた。

与四郎は島原から信濃にやってきた。島原での他の仲間とははぐれてしまった。特に気になったのは丸橋忠也であった。

その忠也と再会したのは、与四郎が泉州堺へ行く途中でのことだった。

再会を果たして、与四郎は忠也に生い立ちからの全てを話した。そして、二人は意外な因縁があったことを知り驚く。

江戸では大火があり、はんは後藤庄三郎のおかげで難を逃れた。だが、庄三郎には生涯消えない傷が残り、はんは償いをしなければならないと思うようになる。そして、はんは、与四郎を思い続けた自分は大火で死んだのだと思うようになった。

そんなはんが西丸御殿にあがることになった。そして、この頃には、与四郎は正雪と名を変え江戸にいた。

本書について

山本周五郎
正雪記
新潮文庫 約六七〇頁

目次

第一部
第二部
第三部

登場人物

由井正雪(与四郎、久米、小太郎)
丸橋忠也
勾坂喜兵衛
小松…喜兵衛の妹
味平兵庫
五郎丸
金井半兵衛
和泉屋久兵衛…半兵衛の叔父
熊谷三郎兵衛
廓念坊
油屋重右衛門
重兵衛…重右衛門の息子
相模屋丈吉
テレーズ・かなえ
石川主税助
はん…主税助の娘
弥五…飯炊きの老人
おしゅん
鳴海平蔵
つな…平蔵の娘
後藤庄三郎
勘次

増六(益田六郎右衛門)
才助
松平信綱
吉岡清之助
弓矢五郎兵衛
おなつ
和田屋嘉平
ちぐさ
又兵衛…細工師
紀伊(徳川)頼宣
安藤帯刀
与兵衛…正雪の父親
おつね…正雪の母親

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