那須神社の参詣記-歴史と見どころ紹介(栃木県大田原市)那須与一に関係する神社

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大田原市那須神社楼門

道の駅 那須与一の郷の裏手にあります。

那須与一が源平屋島の戦いで扇の的を弓矢で射落とす際、「南無八幡大菩薩」と、心に念じた神社とも伝えられています。

これには異論もあり、那須温泉神社がその神社だとも言われています。

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那須神社の由緒・歴史

大田原市那須神社拝殿

那須神社の創建は仁徳年間(313~399)とされます。

当時の下野国造であった奈良別名が下野国国家鎮護とし御神体である金瓊を埋め石祠を建立したのが始まりとされています。

延暦年間(782~806)には坂上田村麿が東夷東征の際、この地を訪れ戦勝祈願しました。

その際に宇佐八幡宮の分霊(応神天皇)を勧請し金丸八幡宮としたといいます。

源義家も戦勝祈願で金丸八幡宮を参拝しました。

見事勝利した源義家は、家臣である須藤貞信(那須家の祖)に命じ、社殿の造営や参道の整備を行い社領50石を寄進しました。

参道にある桜はこの時植樹されたものと伝えられています。

その後この地を統治した那須家の崇敬社となります。

那須与一が文治元年(1185)に屋島での戦功により那須の総領になると、金丸八幡宮の御加護として文治3年(1187)土佐杉で社殿の再建し自らの太刀を奉納しました。

陰暦8月15日の例大祭には京から神職や伶人を呼び、舞楽の奉納や、流鏑馬の騎式などを行ったと伝えられています。

流鏑馬は、今も古式ゆかしく行われています。

那須家の支配が弱まると一時衰退します。

その後周辺を支配した黒羽(くろばね)城主大関氏の崇敬社となり、天正5年(1577)に本殿・拝殿・楼門を再建し銅製鰐口などが奉納されました。

黒羽(くろばね)藩主大関氏は9月15日の例大祭に城主みずから参拝し、舞を鑑賞したといわれています。

江戸時代に入ると信仰も広がり元禄年間には松尾芭蕉が”奥の細道”行脚の折参拝に訪れました。

社宝には、那須与一が奉納したといわれる太刀や寛永19年(1642年)の建立と推測される楼門などがあり、春と秋の例大祭に奉納される永代々神楽、獅子舞、流鏑馬の行事なども有名です。那須神社の獅子舞の起源はさだかではありませんが、大関増清が応永年間(西暦1394年~西暦1428年)に、余瀬に白旗城築城の際、地鎮として舞われたものであると伝えられています。

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那須神社の見どころ

大田原市那須神社参道

平成26年3月18日に本殿と楼門が国重要文化財に指定され、おくのほそ道の風景地として国の指定名勝になりました。。

松尾芭蕉は元禄二年(1689年)、古歌の名所、由緒・来歴の地を訪ねて江戸から美濃大垣まで、みちのく・北陸路を旅し、紀行文学の傑作である「おくのほそ道」を完成させました。芭蕉とその弟子の曾良が作品に書き留めた風景は、近世以降人々の風景観に影響を与え続け、今なお往事の雰囲気と遺風を伝える一体の風致景観を誇っています。

「おくのほそ道」と「曾良旅日記」に記載のある風景地のなかで、風致景観や遺存状況が良好な地点がおくのほそ道の風景地として一連で名勝に指定されています。八幡宮(那須神社境内)は、黒羽滞在時に故事来歴の地を訪れたうちの一つで、寛永年間に建造された本殿や楼門などの社殿があり、参道の両脇には杉並木が続いています。

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那須与一の所縁の地

大田原市那須神社鳥居

那須与一に関連する場所として近隣には次の2つがあります。

  1. 那須神田城跡(国指定史跡)
  2. 那須与一の墓
  3. 那須温泉神社

祭神:応神天皇

本殿全体の彫刻や彩色、楼門全体を彩る装飾などは独創的で、「中世と近世の特徴を併せ持つ神社建築」として高い評価を得ています。

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地図

住所:栃木県大田原市南金丸1628
電話:0287-22-3281

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