永岡慶之助の「伊達政宗」を読んだ感想とあらすじ

この記事は約11分で読めます。
記事内に広告が含まれています。
スポンサーリンク

覚書/感想/コメント

伊達政宗の生涯を描いた作品。

上巻は政宗が家督を相続する時期から、秀吉に屈服するまでの期間を描いている。

伊達政宗といえば、戦上手というイメージがあるかもしれないが、戦以上に上手かったのが謀略戦だった。

だが、逆にこの上手さが、筆者をして『この謀略戦に長けていたことが、伊達家の歴史を通じて、世人がなんとなく暗い印象を受ける原因といえなくもない。』と言わしめている。

後半は秀吉の死後から家康の権力が確定するまでの時代の伊達政宗を描いている。

伊達政宗という男の人生は長い。

本書では描かれていないが、江戸時代に入ってからの政宗についてもいろいろなエピソードがあり、それはそれで面白い。

だれか、この時代に焦点を当てて描いてくれるとそれなりに面白いのではないかと思うのだが。

ちなみに、権中納言に任ぜられてからは政宗は仙台黄門とも呼ばれている。

伊達政宗を描いた小説

スポンサーリンク

内容/あらすじ/ネタバレ

原田左馬之助が宿直をしているとき、厚い闇の中に人の気配が動いた。例の人の放たれた若殿暗殺の刺客か…。そして、長年にわたって伊達家を陰湿などろどろしたものに包みこみ、家臣を二分しかねない危険にさらしている女性の執念に身震いした。

このことを知り、主・伊達政宗は憂慮していた。

それを片倉小十郎が見守っている。小十郎は米沢八幡宮の宮司の次男だったが、城主伊達輝宗に召しだされ、二十歳そこそこで政宗の養育係となった。いまだ三十歳前後の若さながら、対するもののこころを畏服させずにはいられないほどの切れ者である。

政宗は、おのれが家督を継がなければこのようなことは起きなかったと考えていたが、小十郎は政宗の中にある優れた資質が目覚める日を待っていた。

天正十年(一五八二)。織田信長が本能寺で死んだ。

鞍掛三蔵が櫓のそばで女のうめき声を聞いた。

そこに原田左馬之助が駆けつけた。水瀬多門もいた。多門と左馬之助は前髪立の頃からの親友である。

この日の多門はいつもと様子が違っていた。一体多門に何があったというのだ…。

政宗はいまだに三春城主・田村大膳大夫のむすめ愛姫(めごひめ)が米沢城に来た日のことを忘れない。

この日、政宗は愛馬・月山を駆って城門をでた。従うのは片倉小十郎、原田左馬之助、一歳下の伊達成実に鞍掛三蔵の四名だけである。

師・虎哉宗乙が政宗を叱咤する。魂が病んでいると。政宗は片眼を失っている。それを気にしていた。

喜多女の侍女・中浜朱実は水瀬多門が恐ろしいことを考えていることを知った。

一方で、原田左馬之助も多門の行動に疑問を抱いていた。

父・輝宗は息子に九代目と同じ名をあたえたことに満足していた。九代政宗は新続古今和歌集に詠進した歌人であり、都まで聞こえた武将でもあった。

政宗は、どこへ出しても恥ずかしくないだけの若者に成長していた。

天正十二年(一五八四)、政宗はついに伊達家十七代目の家督を継いだ。父・輝宗は、竺丸を擁する母親北ノ方一派の策動を強引に押し切ったのである。

伊達家は幾多の難問を抱えている。家中の分裂もその一つがだが、仙道制覇もその一つであった。仙道制覇とはとりもなおさず、陸奥出羽を制覇することを意味していた。

輝宗の隠居は早い。だが、輝宗は己の器量では、家を維持することで精いっぱいであると感じていた。だからこそ、おのれを超える器量をもつ政宗に掛けたのだ。

会津の芦名盛隆が死んだ。

政宗が家督を相続してから、まだ数日と経っていない。まだ連日のように近隣の豪族がやってきている。その中に、大内定綱がまじってきたという。大内定綱ははっきりと反伊達陣営の立場にあるとみなされてきた人物である。

それが、伊達家への従属を申し出てきた。芦名盛隆の死を知っているようだった。

大内定綱は政宗の器量を見極めてから、今後の進退を考えようと思っていた。そして、その器量を見極めたと思った。甘い、甘すぎる若造だ。

たちまちに会津の芦名に寝返ることに決めた。

雪解けの季節になっても大内定綱が姿を見せないことに政宗は不信感を抱いた。そして、ついに討滅の兵をもよおした。

だが、平田太郎右衛門の寝返りに端を発した、歯車の狂いは、最後まで調整できずじまいに終わった。ついに、会津への侵攻はならなかった。この作戦の失敗が仙道周辺の諸大名に及ぼした心理的影響は大きく深いものがあった。

だが、師・虎哉宗乙はこの失敗を祝った。

再び、大内定綱の討滅をはかった。今度は負けられない。

そして、仙道周辺の諸豪族は、政宗軍が小手森城で大虐殺を敢行したと聞いて驚倒した。定綱も戦慄した。

大内定綱が敗れて、もっとも衝撃を受けたのが二本松の畠山義継だった。この義継のせいで、政宗は父もろとも義継を殺さなければならなくなってしまった。

畠山義継との外交折衝は、老巧な父に任せた方がよいと判断した政宗の油断であった。

輝宗の七日の忌を終えた政宗は二本松城攻略の軍を起こした。弔い合戦である。

父の無残な最期に会い、政宗はこの事件を境にして、別人のごとくなった。かつての気弱さがなくなり、独眼竜の異称も、これからの四、五年の間に奥州六十六郡のなかばを手中におさめたことによって名付けられたといってよい。

二本松城攻略の間に黒絆組(忍びのもの)から芦名や佐竹が動き出したとの知らせを受けた。

憂慮する片倉小十郎に対して、一度は相手にせねばならない相手だと言った。政宗はまさに、生涯での一大危機を迎えようとしていた。

だが、この敵が突然目の前から消えた。連合軍の主将・佐竹義政が下郎に刺殺されたためだった。

ようやく二本松城を攻略して米沢に戻ったのは、天正十四年のことだった。

この間、政宗や成実、小十郎、左馬之助といった家中の若い者の力によって、伊達家の版図は拡大していた。

そして、政宗は自分の手許から三蔵を放した。

一触即発の危機が四方を囲んでいる。

会津では再び家中が二分する事態になっていた。悪いことには、最上、相馬との対立が深まっている。さらに、佐竹軍が侵入してくるという慌ただしさであった。

天正十六年。豊臣秀吉は九州征伐を終えていた。

政宗はそれを聞き、仙道の制覇を急がねばならぬと感じていた。だが、京都から使者がやってきて、上洛して秀吉に参候するようにすすめてきた。

政宗は小田原に北条がいるので、秀吉の手が伸びるのはまだ先だと思っていた。

それゆえに、政宗はまずは芦名家を討つしかないと決意していた。

天正十七年、政宗はついに念願の黒川城に入城した。

そして、抵抗を続けていたものが帰属し、三十四郡を手中にしていた。政宗が家督を相続してからわずか五年あまりのことであった。

政宗の上洛をうながす秀吉からの督促はいよいよ急となっている。そして、小田原の北条からも使者があった。

政宗は、唸っていた。ついに政宗は関東進出を断念して、小田原参陣を決意した。

その出発の直前、水瀬多門を通じて母・保春院からの招待を受けた。この席で政宗は毒を盛られた。

出発の直前、禍根を発つため、弟に死んでも貰わなければならなかった。

小田原参陣の衣装は異様であった。髪はかぶろ、つまり切りそろえて垂らしたもの、甲冑の上には白麻の陣羽織を着て死装束と思わせるものだった。

秀吉は政宗の遅参を許した。

政宗は一揆鎮圧の作戦を蒲生氏郷と打ち合わせた。

その翌日、政宗の家臣・須田伯耆と名乗るものが氏郷の陣営に駆け込んで、この一揆は政宗の煽動から起きたもので、さらには氏郷の暗殺も企てていると告げだ。

はたして、政宗から一揆勢にあたえた廻状がでてきた。政宗の自筆をしめす、鶺鴒の花押もある。

政宗は京に呼び出された。今回は黄金のはりつけ柱を持っての上洛であった。

一揆通謀の疑いが晴れてからの秀吉の政宗に対する好意は並々ならぬものがあった。

上洛以来、政宗は一段と慎重になっていた。奥羽にあっては、一級の謀略家と自認していた政宗であったが、京都に来てからはその自負も微塵に砕かれた。

秀吉の前に出た己は、まさしくかつての大内定綱そのものであった。

中央にあっては、たとえ武将であろうとも茶道や和歌に通じているか否かがら、社交界に顔を出せるかどうかのカギとなっていた。

政宗は秀吉に近い茶人や武将と急速に交際を深めていった。

政宗の評価は、伊達屋敷の落成祝賀の宴を境にして俄然変わった。さすがは名門の出と評されるようになったのである。

京都から米沢に帰った政宗は再び大崎、葛西地方の一揆鎮圧に乗り出した。

上洛して、中央における政治、経済、文化の実体にふれた政宗は、けっして秀吉の策謀にも乗せられることのない、複雑にして強靭な精神の所有者となっている。

政宗の一揆鎮圧は予想以上にスムーズに行ったが、目の前に九戸政実が頑強に抵抗を続けていた。

奥州の領土配分が行われ、政宗は愕然とした。伊達家に縁の深い米沢地方、仙道五郡がとりあげられ、蒲生氏郷に与えられた。
見事にやられた。

新領五十八万石とはいえ、前領よりも十数万石も減封となったのである。

秀吉から朝鮮出兵を告げる通達が出た。千五百人が秀吉から政宗に割り当てられた出兵の人員であった。

政宗は兵を率いて九州の名護屋に向かった。

名古屋で徳川・前田の両家が喧嘩をはじめた。

前田家は伊達家を味方と思っていたが、伊達家は鉄砲隊の銃口を前田家に向けた。

この事件は、政宗という人間の存在に新たな重みを加えた。これまで前田家に近いとみられた政宗が、突如、徳川に助成する意思を示したことは、諸侯の間にも強い衝撃を与えた。

政宗め、一筋縄ではゆかぬ。油断ならぬやつだ。

この政宗に朝鮮に渡航せよとの命が下った。政宗は浅野長政、幸政親子と同じであった。

だが、朝鮮で原田左馬之助を失った。

朝鮮から帰国して政宗は豊臣秀次とちかづくことになった。

この時、京都滞留が一年半余りに及んだ。領地に戻るのは、実に足掛け四年ぶりであった。

京都滞留で政宗は石田三成に気を許すことはなかった。

豊臣秀次が高野に追われたと聞き、政宗は不吉な予感がした。そして、秀次が謀反の罪に問われたと聞き、これは、くるな、と身の引き締まるのを覚えた。伝えてきたのは全て鈴木新兵衛あった。

事態は深刻であった。

秀吉から家督を秀宗にゆずり、伊予への転封を命ぜられた。だが、この窮地を救ってくれたのが徳川家康だった。ここにきて、初めて家康という地味な武将の政治力に眼をみはる思いだった。

秀吉が再び朝鮮出兵した。だが、時期を同じくして秀吉の体力は急速に衰えていく。

秀吉の死後、天下の情勢が微妙に揺れ動いた。

にわかに存在の重みを増した徳川家康と、石田三成の対立が目立ち始めてきたのだ。迂闊には動けぬ。

その家康から、政宗の娘と家康の六男忠輝との婚姻の打診が来た。家康が仮面を脱ぎ始めていた。

慶長四年。前田利家が死んだ。

政宗は家康にすでにぬかりなく助成を申し入れている。だが、こうした中、伊達成実が出奔した。

人はともすると、おのれの身近にあって、もっとも献身的に仕えるものに馴れ、また身近ゆえに死角となって見えぬまま、粗略に扱うことがままあるものである。その過失を政宗もおかした。

成実に対する政宗の過ちはまだ続いた。そして、その成実を家康が召し抱えた。政宗の複雑な心境を、妻・愛姫が鋭く指摘した。

慶長五年。上杉景勝に逆心ありとの風聞が立った。

政宗は対上杉戦を想定し始めていた。徳川家康が北上してくるまでに、いかに領土を切り取れるかが勝負である。

家康からは百万石の御墨付きがあったが、これは信用できなかった。

この中、成実が戻ってきてくれた。

関ヶ原で天下分け目の合戦があった日、奥州では政宗のもとに最上義光から書状が届いた。救援の依頼だった。

冷静に考えれば、最上と上杉を闘わせ、疲弊したところを伊達が乗り込めば良い。だが、母・保春院を見捨てることが政宗にはできなかった。

南部の和賀郡におきた一揆。この事件こそ、謀略家としての政宗の一面を如実に物語る材料である。

政宗の計算通り一揆の連鎖反応が起き、南部勢は仰天した。

だが、この一揆のことが家康に報告されてしまった。これからが、家康との勝負だった。

和賀一揆に対する格別のおとがめもなかった。だが、恩賞の沙汰もなかった。関ヶ原が終わって、論功行賞は人の噂として聞くばかりであった。百万石の夢もふいになったらしい。

そう見きった政宗は、未練を断ち切って、伊達家の今後を仙台城下の創造にかけたのは賢明であった。

本書について

永岡慶之助
伊達政宗
青樹社文庫

目次

眠り鷹
前髪
孤雁
深い霧
黒い炎
半月
悲願
乱世の虚実
戦雲乱夢
出陣潜行
血の河
狂い歯車
さざ波
火の原野
鬼女
竜巻き
有情非情
戦火炎上
七草摘み
濁流
賭ける
火花
北斗星
鶺鴒の眼
京の空
虚実
荒海
殺生関白
長柄日傘
浮沈
愛憎
発火点
北行南帰
風姿花伝
関ヶ原
合戦余燼
独眼竜戦記
死活の刃
氷の炎
うたかた
淀の水車

登場人物

伊達政宗
愛姫
片倉小十郎
原田左馬之助
伊達藤五郎成実
遠藤基信
喜多女…乳母
中浜朱実
鞍掛三蔵
水瀬多門
虎哉宗乙…政宗の師
小関安房
大内定綱

伊達政宗ゆかりの地

仙台城(青葉城)

仙台城(青葉城)の訪城記・宮城縣護國神社の参詣記-歴史と見どころ紹介(宮城県仙台市)[国の史跡]
仙台城(青葉城)と宮城縣護國神社の紹介と写真の掲載。こんなに高台にあるとは思わなかった。驚いた。いやぁ、仙台市内が一望できる。

瑞鳳殿(仙台藩租伊達政宗公御廟)

瑞鳳殿(仙台藩租伊達政宗公御廟)の参詣記-歴史と見どころ紹介(宮城県仙台市)豪華絢爛な桃山様式の霊廟
瑞鳳殿(仙台藩租伊達政宗公御廟)の紹介と写真の掲載。「瑞鳳殿」は1636(寛永13)年、70歳で亡くなった伊達政宗の遺命により、翌年に二代目藩主・伊達忠宗が造営した霊屋。
タイトルとURLをコピーしました