宮本昌孝の「ふたり道三」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

斎藤道三による美濃の国盗りは道三一代のものではなく、父・長井新左衛門尉との父子2代にわたるという説が有力だそうだ。

これは岐阜県史編纂の過程で発見された「六角承禎条書写」によるものだそうだ。この古文書は道三の没後四年頃に書かれたものである。

この小説もこの「六角承禎条書写」をベースにしている。ベースにしているのは各登場人物もそうである。

従来は一代で戦国大名にのし上がったと思われており、北条早雲らと並ぶ下克上大名の典型とされた。

僧侶から油商人を経たというのも、従来のイメージである。

実態は、道三の父は京都の妙覚寺の僧侶だったが、還俗して西村姓を名乗り、美濃守護の土岐家家臣・長井家に仕え、頭角を現すと、長井新左衛門尉と改め、美濃三奉行の一人にまでなった。

その子、道三こと長井新九郎規秀は天文三年(一五三四)に主家・長井氏を滅ぼすと、翌年には守護代と同じ斎藤姓を名乗り、美濃を実質的に支配するようになった。

斎藤道三。父は長井新左衛門尉(豊後守)。

名として伝わっているものとしては、法蓮房、松波庄五郎、松波庄九郎、西村正利、西村勘九郎、長井規秀、長井新九郎、長井秀龍、斎藤利政、斎藤新九郎、斎藤道三などである。

信頼できる史料に現れてくる名前は、藤原(長井)規秀、斎藤利政、道三などで、少ない。

息子に義龍、孫四郎(龍元、龍重)、喜平次(龍之、龍定)、利堯(利堯、玄蕃助)、長龍(利興、利治)、日饒(妙覚寺19世住職)、日覚(常在寺6世住職)。

娘に姉小路頼綱正室、帰蝶(織田信長正室)など。

また、長井道利は弟とも、道三が若い頃の子であるともされる。

本書で重要なのは、大永の動乱である。

大永五年(一五二五)、長井一党が叛乱を起こし、長良川北岸の守護の本拠地を占領した。

この反乱の中で、土岐氏斎藤氏の大半は山間部へ一時避難した。避難した場所は武芸川町の汾陽寺の周辺だったと考えられているそうだ。

この美濃で起きた一大事について、周辺の諸大名の介入があった。越前の朝倉氏は守護土岐頼武を支援するために軍事介入し美濃に出陣して、美濃守護所の福光館を占拠した、ということだが、さらには浅井氏の動きなどもあって、もっと複雑だったようである。

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内容/あらすじ/ネタバレ

六尺をこえようかという巨躯、鼻筋の通った双眸は、異邦の地の混合をうかがわせる。左目は眼帯の下だ。

男は天に向かって叫んだ。刀鍛冶をやめる、と。男はおどろ丸といった。

裏青江の無量斎がおどろ丸を襲ってきた。

助けに現れたのは松波庄五郎基宗だった。庄吾郎はおどろ丸を知っていた。櫂扇隠岐允の子であることも。

庄五郎はおどろ丸に太刀の依頼に来たのだった。依頼主は赤松左京大夫政則である。赤松囃子が欲しいというのだ。

櫂扇の太刀が世に現れるのは、嘉吉元年(一四四一)のことである。

赤松満祐が足利六代将軍義教に襲いかかって首をはねたのが、櫂扇だった。太刀は誰が名付けたかは知らないが、赤松囃子と呼ばれるようになった。

赤松囃子は叩き折られた。次に櫂扇が現れたのは、十六年後。長禄元年(一四五七)のことだ。

おどろ丸は太刀をつくることを承諾した。

赤松政則の目的はただ一つ。将軍義政の暗殺であった。

足利義政暗殺を未遂に終わらせた後、おどろ丸、庄五郎、女忍びの小夜が一端逃げた先は鞍馬だった。

その後、おどろ丸は庄五郎の案内で美濃へ旅立った。美濃は、九年前に美濃守護代の斎藤妙椿が没している。庄五郎はその手下だった。今は、自分の意思で小夜を助けている。

美濃は争いの絶えぬ国であった。おどろ丸は隻眼を輝かせ、おもしろいと思った。

美濃の斎藤氏は平安時代にその履歴がさかのぼる。室町時代になって、美濃守護土岐氏の執権として守護代をつとめるようになった。

もう一方の守護代富島氏と抗争を繰り返したが、妙椿の出現により、その地位がゆるぎないものとなった。

妙椿には梟雄の性根があったと、庄五郎は語った。庄五郎は妙椿の直属の忍び集団・椿衆に幼いころに拾われて育った。

おどろ丸は妙椿の話を聞いて言い知れぬ昂揚感が起きていた。

主家を凌ぎ、幕府をもひっくり返そうかという力を蓄えつつあった男がわずか九年前まで生きていたとは…。

今の美濃というと。

守護土岐家は飾りにすぎなかった。斎藤妙純と石丸丹波守の勢力で二分されていた。

おどろ丸の前に現れたのは関鍛冶の兼定だった。そして娘の錦弥だった。

兼定はおどろ丸を連れて春日神社に向かった。秘宝があるという。ただし、秘宝はすぐには拝めない。童子あらためというものを経なければならなかった。

関鍛冶の始祖は、二代目の櫂扇隠岐允だという。だが、おどろ丸は真実を告げた。

おどろ丸は錦弥と夫婦になった。

美濃では、守護代斎藤妙純とその家老石丸丹波守利光との確執が一触即発の危機を公然たらしめていた。

両者の戦の中で、おどろ丸の活躍が石丸丹波守利光に認められた。だが、続く戦で石丸側は敗北した。

十五年の時が過ぎた…。

おどろ丸は西村勘九郎と名を変えた。もはや五十代半ばにさしかかっていた。錦弥も関の方と呼ばれていた。

夫婦の行方を激変せしめたのは、城田寺合戦の最中の息子・破天丸の死であっただろう。

この合戦で、おどろ丸は破天丸も櫂扇の太刀も、庄五郎も失ってしまった。底知れぬ深くて暗い心の空洞に自らを閉じ込めていた。

法蓮房と南陽房は仲が良かった。

南陽房は家柄がよい。美濃斎藤氏の生まれであった。

一方、法蓮房は八歳まで峰丸と呼ばれていた。小栗栖の竹林の中に住んでいた。母・小夜と老爺・甲壱との三人だけの生活だった。

小栗栖に戻る途中、赤子を女から頼まれた。赤松義村に届けてくれという。この子は、赤松義村の子なのか。いやそうではないと法蓮房は直感した。さらに高貴の血筋に違いない。将軍家の子…、だとするとおもしろい。

法蓮房は還俗した。

名を松波庄九郎とした。松波庄五郎の名から思いついたものだった。

庄五郎の甥という触れ込みで、西岡の油問屋奈良屋又兵衛に奉公した。

その庄九郎が駿河に行くことになった。最大の理由は三浦氏を滅ぼさんとしている伊勢宗瑞の存在だ。

宗瑞は乱世の申し子だ。それを知らずして乱世の夢は見られぬ。

松波庄九郎の軍団は京都を発して、東海道を下っていた。

途中、賊に襲われた。賊を撃退し、さらに相模国鎌倉をめざした。

玉縄城にたどりついた。

庄九郎は伊勢宗瑞と会った。宗瑞は新井城攻略に苦戦していた。庄九郎はそれを打破してみせようという。

庄九郎はその約束を果たす。新井城攻めで抜群の働きを見せた。

庄九郎は伊勢宗瑞とはいささか距離を置いて接した。その方が冷静に宗瑞のやり方を眺められると思ったからであった。

山崎屋の荷駄警護の者として、たびたび戦陣へ赴き、宗瑞の戦ぶりをつぶさに学んだ。そして、時には自身も戦場を馳駆した。

時は瞬く間に過ぎ、二年がたった。

相模の国を平定し終え、宗瑞は小田原を居城とする嫡子氏綱へ家督を譲った。

庄九郎の旅立ちを意味していた。

別れ際、宗瑞は庄九郎に美濃へ行け、といった。それを聞いて放魚は、あっと驚いた。

そして、撫子十郎の本当の名が斎藤十郎光彬、美濃守護土岐家に仕える家柄だという。

美濃。

山崎屋庄九郎と名乗る油売りが評判であった。

美濃入りした庄九郎だが、まっすぐには福光をめざさなかった。戦の始まる寸前だと聞いたからである。初めての国で、いきなり争乱の中に飛び込むのは無謀であった。しばらくは情報を集め、傍観するのが得策だろう。

西村勘九郎は長井新左衛門尉と名を改めた。

斎藤利良と彦四郎の合戦は、勘九郎がにわかに矛先を転じて、利良を急襲したことで、一気に形勢が逆転した。彦四郎方が大勝し、利良は土岐頼武を擁して越前の朝倉氏へ逃げた。

長井新左衛門尉は油屋の姿を見て、かつての破天丸を思い起こしていた。

油屋の名を聞いて、新左衛門尉も関の方も眼をむいた。偶然であろうが、松波庄九郎とはなんと似通った名前であることか…。
互いに知らずとはいえ、親子の対面の場であった。

庄九郎が守護代斎藤彦四郎に拝謁したのは、冬も半ばであった。

これで各家から出入りを望まれ、かれらの内情を知ることができるようになるだろう。

欲が絡むと、人は本性を現す。将来の美濃盗りのためには重要なことだった。

雪が解けると、越前に逃れていた斎藤利良が朝倉氏の支援により美濃へ進撃してきた。

この軍に、長井新九郎規秀がいた。膨大な軍資金の拠出とひきかえに賜った姓名である。松波庄九郎改め長井新九郎規秀の新しい戦いの始まりである。

そして、この戦の中、長井新左衛門尉と新九郎の両名は、互いを父と子であるともしらずに、武人同士の盟約を結んだ。

長井新左衛門尉は自ら建立した祠堂を道三堂と名付けていた。それは亡き破天丸のためのものだった。

自分が地獄道、母が俗世道、そして破天丸が天上道、ということである。

夏、守護土岐政房が急死した。

越前から土岐頼武が福光の守護所に落ち付き、美濃は表面上平穏を取り戻していた。

だが、頼武は凡庸。いずれ、頼芸を担ぐ者が出てくる。それまでに、頼芸の寵愛を新九郎はえることにした。

無量斎が美濃に入った。やつらが皆、美濃にいる。復讐に燃えている者にとっては好都合であった…。

新九郎は小夜から本当の母の名を知らされた。播磨・赤松政則の娘・松姫。そして、父がおどろ丸こと長井新左衛門尉であることを。

だが、このことを関の方も知ってしまった。

斎藤利良暗殺により、美濃の勢力図が劇的に変化した。

新守護代が誰になるかで、斎藤氏一門は持是院家に対する発言権の強い利貞尼に諮った。

そして斎藤氏の最長老の豊後守利隆が斎藤又四郎の後見人として、みずから持是院妙全と号するようになった。

新九郎はまずは長井新左衛門尉を妙全と藤左衛門と対等の立場にしてみるという。それは守護代家の後見人にすることである。

幕府は未だに斎藤又四郎が守護代になることを認めていない。

この策が功を奏した。幕府は美濃斎藤氏に斎藤利茂を美濃守護代として承認する旨の書状を送った。これを知って持是院妙全は眼をむいた。

長井新九郎は放魚と椿衆を放ち、熊神衆へのひそやかな攻撃を開始させた。奈良屋と山崎屋を潰された新九郎の恨みと無量斎は考えるだろうが、これは陽動作戦だった。

そして浅井亮政の助力を得た。

美濃大永の動乱は亮政の仕掛けによりはじまり、鷺山屋敷における新九郎と又四郎の密談の翌々年、大永五年(一五二五)の春だった。
この中で、新九郎は目覚ましい活躍をした。

新左衛門尉が襲われた。

新九郎は誰が襲ったかを知っていた。斎藤又四郎である。

新九郎が又四郎を謀反へと向かわせた目的は、妙全を滅ぼすことにある。又四郎が浅井勢を引き入れて、謀反の結構にいたれば、まことの首魁が妙全であることを、土岐頼武らの前で証明するつもりであった。

だが、こたびの襲撃がまことなら、これで妙全を追いこめる。だが、相手もさるもので、全ての証拠を消し去っていた。

美濃は不安定になっていた。美濃では新左衛門尉が死んでいると信じられていた。

一方で、近江でも異変が起こっていた。

その近江の浅井亮政は朝倉孝景とともに美濃一国を奪取しようと考えていた。

そして、新左衛門尉が生きていることが分かった。

美濃でこれほど権謀術数が渦巻いた夜はなかっただろう。浅井家と朝倉家の会見、神戸砦の惨劇、尾張織田家の参戦…。

大永の動乱から一年。

謀反軍撃破の立役者の一人になり、武人としての能力も見せつけた新九郎の名は美濃の中で高まった。

勢力は長井新左衛門尉一党と、長井越中守一党とで、ほぼ二分されていた。

関の方の新九郎に対する複雑な思いは深まるばかりであった。

小夜には一つの考えがあった。そして、関の方も小夜の正体を探っていた。

新左衛門尉が関の方と新九郎を放逐した。

新九郎はそれを聞き、呆然とした。

だが、関の方は新左衛門尉の愛情を死に物狂いで取り返そうとするだろう。関の方が考えていることに思いを寄せると、新九郎の総身の毛が逆立った。

関の方のなすことをみて、新九郎は狂気の沙汰だと思った。新九郎は底なしの淵へ突き落されたような思いであった。

何のためにいままで関の方とは心情的に対立しながらも、現実的には手を携えあってきたのか…。

関の方の暴走で、守護代斎藤利茂を射殺してしまった。

もはや、新九郎の野望達成どころか、それ以前の新左衛門尉を押し立てた美濃盗りへの布石も崩れ去ったというべきだろう。

新九郎は阿耶の実家山崎屋本家に身を寄せていた。

新左衛門尉は関の方の謀反の後、長井道三と名乗っていた。その道三は新九郎の再起が近いことを感じていた。

本書について

宮本昌孝
ふたり道三

目次

第一章 赤松囃子
第二章 飛花暗殺剣
第三章 美濃へ吹く風
第四章 関鍛冶
第五章 舟田合戦
第六章 幼子たち
第七章 城田寺の露
第八章 梟雄還俗
第九章 愛憎往来
第十章 奈良屋判官
第十一章 東国下り
第十二章 三浦攻め
第十三章 美濃へ吹く風、再
第十四章 長井新左衛門尉
第十五章 恩讐の一撃
第十六章 父子、盟約
第十七章 幽鬼
第十八章 紅の墓
第十九章 闇の住人
第二十章 三つ巴
第二十一章 甲山の虎
第二十二章 戦雲たなびく
第二十三章 大永の動乱
第二十四章 関白の子
第二十五章 十郎の恋
第二十六章 椿衆惑乱
第二十七章 父子、決裂
第二十八章 折れた太刀
終章 草かんばし

登場人物

西村勘九郎(おどろ丸)→長井新左衛門尉→長井道三

関の方(錦弥)
破天丸…息子
兼定…関鍛冶
松波庄五郎基宗
小夜…忍び
石丸丹波守利光
長井越中守秀弘
無量斎…裏青江
赤松左京大夫政則…守護
法蓮房→松波庄九郎→長井新九郎規秀
南陽房

放魚(松波庄五郎)
お阿耶
撫子十郎(斎藤十郎光彬)
伊勢宗瑞
風魔小太郎
日運(南陽房)

浅井亮政
織田信定

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