不動堂明王院の参詣記-歴史や見どころは?(京都府京都市)新撰組の幻の屯所と最後の洛中屋敷跡

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ビルの谷間にあるので、薄暗いです。

「誠」の提灯が下がっていなかったら、素通りの場所です。

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不動堂明王院(空海と宇多天皇ゆかりの寺院)の歴史

不動堂明王院(ふどんどうみょうおういん)。「ふどんどう」として親しまれています。

本尊は不動明王像。霊石不動と呼ばれています。地中深くに封じられているそうです。

弘仁12年(823年)に空海が東寺を賜った時、東寺の鬼門(東北)なる地に一体の不動明王像を祀りました。

空海はこの地で霊石を発見し、石に不動明王を彫刻しました。

そして、不動明王は石棺に納めて井底深くに安置されたそうです。

東寺とゆかりがあるので、もともとは密教寺院だったようですが、現在は浄土宗西山派です。

寺紋は八重桜であり、宇多天皇との関係がありました。

宇多天皇は昌泰2年(899年)に後院として洛南の亭子院(ていじのいん)を離宮としました。

宇多天皇は亭子院を建築する際に不動明王像が安置された井戸を封じ、霊石に刻まれた不動明王像を「霊石不動明王」と名づけ、特別に祀りました。

室町時代の応仁の乱の兵火により亭子院は焼失しますが、井底に安置された不動明王像はそのまま残りました。

現在の本堂は明和元年(1764年)の建立です。

当堂の開基は今より一千年余前の弘仁十四年(八二三年)にさかのぼります。弘法大師空海が嵯峨天皇より都南に東寺を賜り、東寺より見て鬼門(東北)にあたる、すなわち後年に亭子院(ていじのいん)がつくられたこの地をえらび、東寺守護のために一体の不動尊を安置されたのに由来します。大師はこの地において一基の霊験あらたかな霊石を発見され、その石にみずから不動明王を彫刻してこれを石棺におさめ、さらに地中の井戸ふかくに安置なさいました。
寛平十一年(八九九年)宇多天皇の御代、宇多天皇は上皇となられたとき、京都西ノ洞院の宮殿東七条御所(亭子院)を離宮とされました。当時の亭子院は東西が二町(約二二〇米)南北四町という広大なもので壮麗の妙をきわめておりました。宇多天皇は亭子院をつくられるや、この霊験いやちこな井戸を勅命により封じ何人もうかがうことを許さずとして、霊石不動明王の号を賜って深く崇尊されたのです。
下って室町時代には応仁の兵火により亭子院はじめ堂宇も焼失しましたが、井底に安置された不動の霊像はそのままに、再び篤志家たちの手により堂宇が再建され現在に至っています。
現在の本堂は明和元年十一月(一七六四年)の建立となっております。当堂の本尊である弘法大師の一刀三礼と伝える霊石不動明王は現在も井底に封じられたままにあるため、御前立として不動尊立像を安置してこれを拝することになっております。世俗に高野山波切不動尊と、成田不動尊と並んで、空海作の三体不動尊と称されるものです。

http://fudondoumyououin.web.fc2.com/about.html
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不動堂明王院の見どころ

新撰組が西本願寺の屯所を出て、三番目に屯所を置いたのが不動堂村でした。

正確な場所が分かっていません。

不動堂明王院周辺だったのではないかと考えられています。

そのため、不動明王院には「新撰組幻の屯所」という提灯が下げられています。

住所と地図

所在地: 〒600-8234 京都府京都市下京区南不動堂町7
電話: 075-371-6583

新選組最後の洛中屋敷跡

不動堂明王院から表通りに出て、すぐ近くにある碑です。

慶応3年(1867年)6月、新選組が江戸幕府の直参になったのに合わせて新屋敷が建設されました。

新選組隊士だった宮川信吉(近藤勇の甥)の書簡によれば慶応3年(1867年)6月15日に入居しています。

位置については、同書簡に「 七条通り下ル 」と書かれ、元新選組二番組組長永倉新八の手記には「 七条堀川下ル 」と書かれています。

厳密な場所や規模、 建物構造などは史料がなく不明です。

慶応3年(1867年)12月の王政復古により わずか半年で新選組は屋敷を離れることになりました。

住所と地図

所在地: 〒600-8234 京都府京都市下京区南不動堂町

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