石舞台古墳の歴史と見どころは?(奈良県高市郡明日香村)蘇我馬子の墓?

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橘寺、川原寺跡から石舞台古墳へ向かうには、最初の信号を右斜め前へ進みます。

道を進むにつれて、少しずつ山道らしい雰囲気になっていきます。

やがて中央線もなくなり、この道で合っているのだろうかと少し不安になります。

それでも、そのまま進んでいきます。

すると、先ほどまでの山道からは想像できないほど整備された公園が目の前に現れます。

石舞台古墳のある公園です。

今日のハイライトの一つです。

間近で見ると、想像よりも大きく、重厚感にあふれています。

石舞台古墳

石舞台古墳は、奈良県明日香村島庄にある古墳で、巨大な石室が地表に露出している独特の姿で知られています。

もともとは石室を土で覆った古墳でしたが、墳丘の盛土が失われたため、現在では巨大な天井石や石室の構造がむき出しになっています。

その姿が「舞台」のように見えることから、古くから「石舞台」と呼ばれてきました。

国の特別史跡に指定されており、国営飛鳥歴史公園の石舞台地区を代表する史跡です。

また、世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産として登録されています。

7世紀前半につくられた巨大古墳

石舞台古墳は、飛鳥時代の初め頃、7世紀前半に築造されたと考えられています。

1933(昭和8)年~1935(昭和10)年の発掘調査によって、現在見えている石室だけでなく、もともとは方形の墳丘、周囲の濠、外堤などを備えた大規模な古墳だったことが判明しました。

古墳の周囲からは6世紀後半~末頃の小規模な古墳が確認されており、それらを壊して石舞台古墳が造られたと考えられています。

石舞台古墳は、単に大きな墓だっただけではなく、既存の墓域を整理してまで建設された、非常に強大な権力を持つ人物の墓だった可能性があります。

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被葬者は誰なのか

石舞台古墳の最大の謎の一つが、誰の墓なのかという点です。

確定的な墓誌などが発見されたわけではないため、被葬者は現在も不明とされています。

最も有力視されているのが、飛鳥時代の大豪族である蘇我馬子(そがのうまこ)です。

巨大な方墳

石舞台古墳は、現在では盛土がほとんど残っていませんが、発掘調査によって、もともとは一辺約50~55mほどの方形の墳丘だったことが分かっています。

墳丘の上部まで完全に方形だったのか、上部が円形となる「上円下方墳」だったのかについては、確定していません。

日本最大級の石室

石室全長は約19.1m。

石室は「両袖式横穴式石室」と呼ばれる構造で、玄室とそこへ通じる羨道から構成されています。

現在の姿を見ると、地面の上に巨大な石が積み重なり、特に一番上の大きな石が平らになっています。

古くから「石太屋(いしふとや)」などの名称が記録されていることも紹介されています。

「狐が女性に化けて古墳の上で踊ったため石舞台と呼ばれた」という伝承もありますが、これは後世に生まれた伝説と考えられています。

石室には30数個の巨石が使用され、総重量は推定約2,300トン。

特に南側の最大級の天井石は、推定約77トンにもなります。北側の天井石も約64トンとされています。

石棺と出土品

石室内からは、かつて家形石棺が置かれていたと考えられる凝灰岩片などが発見されています。

石舞台古墳は古くに盗掘を受けていたと考えられ、豊富な副葬品がそのまま残っているわけではありません。

石舞台古墳は、江戸時代にはすでに名所として知られていました。

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