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平岩弓枝の「魚の棲む城」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

「うおのすむしろ」と読みます。田沼意次の生涯を描いた作品で、その人生を幼馴染みのお北、坂倉屋龍介らが支えます。

また、この作品は三人の青春群像といっても良いかもしれません。

それはきっと、だんだんと年を取っているはずなのに、この三人が若いままのように思えてしまうためでしょう。

この三人に加えて、魚屋十兵衛という異質な人物が絡んできます。

田沼意次の昔からの一般的な評価は収賄政治で汚職にまみれた人物であるというものです。

従来は悪役ですが、最近は正反対の視点から田沼意次を評価する向きもあり、本書もそうした流れにあります。

その流れで行くと、田沼意次はガタの来ている幕府の屋台骨を再建するために様々な方策を打ち出したのですが、志半ばで世を去ったということになります。

そして、この後に来る松平定信は田沼意次の政治を全否定したため、幕府再建を台無しにしたということになります。

この松平定信は、最初こそ期待されたもののすぐに見放されわずか六年でその権力の座からすべり落ちました。

田沼意次という人物を正確に評価するのは、バイアスを取り払わなければ難しいです。

そのバイアスを取り除くのも、中途半端にするよりは本書くらいにした方がいいのかもしれません。

そうでないと、その事跡というものに焦点が当りにくくなるからです。

田沼意次と松平定信という政治家の評価というのは、もしかしたら今後変わっていくものなのかもしれません。

田沼意次の一つの不幸は、その在職中に天変地異が起きたことでしょう。

世の中が良くなるどころか、悪くなる一方の印象を与えてしまったのは、運の悪さなのかもしれません。

もう一つの不幸は、成り上がり者であったことです。

すくなくとも譜代、とくに徳川宗家に連なる御三家や御三卿に憎まれていた節があります。

これにひたすら足を引っ張られたという向きもあるでしょう。

本書では、田沼意次の息子・意知を斬った佐野善左衛門をそそのかせたのは松平定信であるとし、裏には御三家がいるという見方をしています。もしかしたら、そうなのかもしれません。

そして、もしかしたら、田沼意次の評判の悪さというのは、こうした田沼の栄達を憎む者達によって作られたものだったのかもしれません。

さて、題名については、本書の中で田沼意次に下記のように言わせています。

「わしは、あの城と湊をつなげ、そのまま、大海へつなげたいのだ。海の彼方からさまざまの船が入津する。海からやって来る魚達のよりどころとなるような城に仕上げたい」

もうひとつあります。

「いつの日か、さまざまの魚がこの湊へ入って来るとよいな。わしはその時、この城にいて、さまざまな魚を迎え、その話に耳を傾けよう。海を越えてやって来る者にとって、この城は魚たちのくつろげる場であるとよいのだがな」

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内容/あらすじ/ネタバレ

本郷御弓町の龍介の生家近くでお北に出会った。お北の生家も近くだ。お北が嫁入りして以来だから八年ぶりだ。その前に龍介はのぞまれて蔵前の坂倉屋に養子に行っている。他に幼馴染みにもう一人の龍助とお志摩がいる。

三人とも旗本の家だ。龍介の速水家は二百石、お北の斉藤家も二百石、田沼龍助が三百石だ。

この日、お志摩が嫁入りすることを知った。相手は本所の旗本だという。

田沼龍助は家督を相続して意次と名乗り、叙爵されて主殿頭となっていた。一方、龍介が養子に行った坂倉屋は豪商の中に入る札差だった。お北は菱垣廻船問屋・湊屋幸二郎のもとに嫁いでいる。湊屋は品川御殿山の麓にある。

嫁いだお志摩が戻されたという。妊っていたのだ。相手の名を言わないが、噂になっているのは田沼意次。

だが、龍介は信じなかった。噂はお志摩が田沼家に女中奉公していたせいに違いなかった。それよりも、田沼龍助の隣に似合うのはお北だとずっと思っていた。

そう思っていると、お志摩の家から男が出てきた。その後ろ姿には見覚えがあるような気がした。

田沼家の蔵米の御用を坂倉家が受け持つことになった。田沼龍助は九代将軍家重の小姓頭取となっている。

その田沼龍助が坂倉屋を蔵宿にしようと思ったのは、いずれ龍介が坂倉屋の当主となった時に、自分を信じて金を用立ててくれると思ったからだ。我が友龍介なら自分を信じてくれるに違いない。

お志摩が生んだのは女の子だった。

九代将軍家重は言語不明瞭で正確に聞き取ることができるのは側仕えの大岡忠光だけだった。そして田沼龍助はじっと将軍家重の言葉を分かろうと努力した。将軍がどれほど嬉しく、頼もしく思ったことか。

田沼龍助は坂倉屋龍介から去年の五月から白山権現周辺で起きている辻斬りの話を聞いた。この後も、凶行は続いた。そして、田沼龍助は辻斬りの犯人を確信した。

お北が身を寄せている家に田沼龍助が繁く通っているとの話を龍介は聞いた。二人が子供の頃から好きあっていることを龍介は知っていた。

大御所と呼ばれた吉宗が体調を崩している。ようやく実権が九代将軍家重に移ろうとしていた。言語障害に苦しみながらも家重は愚かな将軍ではなかった。

小姓頭取の田沼意次には発言権はなかったが、幕閣が集まる席には家重が側に呼んだ。否応なしに政事を学ばざるを得なかった。幕府の目下の課題は米経済だった。

米経済が成り立つのは、米価と他の値段が均衡を保つことだったが、五代将軍の頃から米価は下がりはじめ、逆に他の物価は下がらない状態が続き、武士が困窮することとなった。八代将軍吉宗は米価の引き上げ政策に苦闘したものの思うような成果が上がらなかった。

九代家重の時代、米価政策と物価政策に翻弄されながら、なんとか財政を黒字に持ち込んだという状況である。危ういと田沼意次は考えていた。

お上の台所はぼろぼろで、土台石が崩れかけているといってよかった。

西の丸の大御所吉宗の容態が悪化した。それまで九代将軍家重の治世は短いと計算していた幕閣諸侯は狼狽を隠せなかった。俄に将軍の側近に顔色を窺いだした。田沼意次にしてみれば不快の一言に尽きた。

意次は将軍に対して良き家臣であらねばならないという自覚が今まで以上に強くなっていた。大御所吉宗が死去した。田沼意次三十三歳。

上方の魚崎で、お北は家族とともに樽廻船の魚屋十兵衛のところに身を寄せていた。亭主の幸二郎が中風を患い、魚屋十兵衛が別宅を提供してくれたのだ。鍼灸医もつけてくれて、ようやく効果が見え始めている。お北の子、新太郎は九つになっていた。

そして、江戸に戻ることになった。江戸を留守にして八年。江戸の店は湊屋本家に乗っ取られていた。

田沼意次は一万石の大名になっていた。はじめて領地の相良に行くことになった。それに坂倉屋龍介も同行することになった。

東海道鞠子の宿にはお北の一行がいた。魚屋十兵衛も同行していた。そして、この鞠子の宿でお北は田沼意次と久しぶりの再会を果たした。

後日、田沼意次自ら魚屋十兵衛を訪ね、お北たちの世話をしてくれた礼を述べた。これをきっかけとして、意次と魚屋十兵衛との交流が始まった。

宝暦九年(一七五九)は田沼意次にとっての運勢の上り坂であった。同じ年、弟の田沼意誠が御三卿・一橋家の家老となった。

九代将軍家重が隠居し嫡男・家治が十代将軍となった。将軍の交替は自然に順調に運ばれた。そして、宝暦十一年九代家重が他界した。

新将軍家治は米や倹約の他に幕府の財政改革はできないものかと訊ねた。言葉の裏には宝暦四年に起きた郡上一揆があるのを感じた。米以外に利益を増やそうとするのなら、とりあえずは「座」である。

意次は坂倉屋龍介に家康の時代から百年の間に金銀がおびただしく海外に流出した話をした。銀は四分の三、金は四分の一が流出している。商売が下手だからそうなる…。

田沼意次は加増されて一万五千石になった。

魚屋十兵衛が弁才船とはかなり異なる外見の船で江戸にやってきた。洋船の長所が取り入れられたものだった。

明和四年(一七六七)。田沼意次は側用人になった。四十九歳である。二万石に加増された。

木挽町に屋敷を持ち、そこを私的な情報集めの席としていた。屋敷の主はお北だった。

そのお北をお志摩が娘の登美をともなってやってきた。そして大奥への奉公を願った。田沼意次の手回しもあり、お登美の大奥への奉公がかなった。

この時期意次が力を注いでいたのは、日本国中に通用する通貨だった。上方は銀勘定、江戸は銀勘定だった。意次はこれを重さに関係なく貨幣に表示された通用価値で使用できる通貨に統一することにしたのだ。

明和六年。田沼意次は二万五千石に加増され、老中格として幕政の表舞台に立った。

長崎が賑やかになった。魚屋十兵衛は思った。銀の輸出を止め、中国が欲しがっていた銅に主力を変えた。阿蘭陀にも支払いはすべて金貨、銀貨としたことで、かつて失われた金銀以上の金銀が集まってきている。交易によって力を取り戻していた。

田沼の密命により魚屋十兵衛の七星丸が江戸を発った。蝦夷へ向かったのだ。これまでにない実態がもたらされた。

大奥へあがったお登美が一橋家の治済に見そめられ、一橋家に奉公することになった。

幕閣は御三卿を直ちに絶家にしてしまっても良いという考えがあった。というのは家治には家基という嫡子もいたからだ。御三卿の存在意義は薄い。

明和九年(一七七二)。意次は三万石に加増となり、正式に老中となった。側用人は兼務である。この年、目黒行人坂の大火が江戸を襲った。十一月に改元し、安永元年となる。

安永二年。お登美が男児を出生した。一橋豊千代、後の徳川家斉である。その直後、田沼意誠が死んだ。意誠が生前に当代の一橋治斉は策謀好きと言っていたのを思いだした。

安永三年。田安家が奥州白河松平家への養子縁組を断った。奥州白河松平家から田安家に定信を養子にと願い出ているのを田沼意次は承知していた。

この件に関して将軍家治から聞いた話に意次は絶句する。それは田安定信が、白河へ断りをいれたのは、嫡男の家基が万一があれば自分はそれにかわるものだからというものだった。家治は激怒していたのだ。

そもそも田安家は先代の家重の時にも将軍の座をあからさまに狙って、家重から睨まれていた家である。家治はその父の心を知っている。

こうした中、お登美が大奥の実力者たちと懇意にしているという話が伝わってきた。一橋治斉の意を受けてのことだろう。

田安定信は将軍家のお声掛かりとして、白河藩に養子に行くことになった。

家基が鷹狩りにいって風邪を引いた。そして急死してしまう。

安永九年(一七八〇)。田沼意次は将軍家治の許しを得て二十余年ぶりに相良へ国入りした。将軍のお声掛かりで築城の命が下りてから時間をかけて城を作らせた。領民を苦しめて作るようなものではないからだ。

田沼意次は蝦夷を詳しく調べさせることにした。この国の役に立つことなら何でもする決意だ。見栄を捨てて、実を取る。御用船が商売をして何がおかしい。さらには、海の向こうからの交易の船がやってくるのも期待していた。

そして、蝦夷では我が国の商人がおろしやの商人と抜荷を働いていることが分かった。

田沼意次が相良に国入りした翌年、改元されて天明となった。同じ頃、協議されていた将軍家治の後継者として一橋家より豊千代が迎えられることになった。西の丸に移って家斉と名乗った。

天明と元号が変わってから気候が不順となり不作が続いている。そうした中、天明三年に浅間山が大噴火を起こした。飢饉が広がっていた。

本書について

平岩弓枝
魚の棲む城
新潮文庫 約六一〇頁
江戸時代

目次

本郷御弓町
その夏
女心
陽の当る道
魚屋十兵衛
男ざかり
船出の時
側用人
田沼時代
次期将軍の死
相良城
凶刃
終章

登場人物

田沼主殿頭意次(龍助)
お北
坂倉屋龍介…札差
魚屋十兵衛
新太郎…お北の息子
田沼意知…意次の嫡男
お辰…田沼意次の母
田沼意誠…田沼意次の実弟、一橋家家老
田沼意致…意誠の息子、意次の甥
速水紋十郎…坂倉屋龍介の実兄
速水作太郎…紋十郎の息子
兵太郎…お北の弟、斉藤家嫡男
湊屋幸二郎…お北の亭主
お志摩
お登美…お志摩の娘
徳川家重…九代将軍
徳川家治…十代将軍
徳川家基
松島…大奥御年寄
一橋治済
一橋豊千代(家斉)
松平定信
平賀源内
島津重豪
佐野善左衛門政言