
東大寺には、聖武天皇の奈良時代、重源が活躍した鎌倉時代、公慶が復興に尽力した江戸時代という異なる時代が、一つの境内に重なっています。
南大門の前では鎌倉時代の重源と運慶・快慶、大仏殿では聖武天皇と行基、二月堂では良弁と実忠、指図堂では重源と法然、正倉院では聖武天皇と光明皇后という具合です。
東大寺は1998年(平成10年)12月に古都奈良の文化財の一部として世界文化遺産に登録されました。
人と寺院が交差する1300年の歴史

日本を代表する古寺です。
奈良公園の一角に広大な境内を構える東大寺は、華厳宗の大本山として知られています。
大仏殿、南大門、二月堂、法華堂などには、奈良時代から鎌倉・江戸時代に至る日本の歴史が重なっています。
奈良時代には仏教を学ぶ総合的な学問寺として機能し、鎌倉時代には浄土宗の法然とも深い関係を持ちました。
中国から来日した鑑真とも東大寺はつながっています。
聖武天皇が願ったすべてのものが栄える世界

東大寺の前身は、728年に聖武天皇の皇太子・基親王の菩提を弔うために建立された山房に始まります。
その後、741年に聖武天皇が国分寺・国分尼寺の建立を命じると、現在の東大寺につながる寺院が大和国の国分寺として発展しました。
743年には、聖武天皇が盧舎那大仏を造立する詔を発します。
大仏造立には、当時の社会情勢が大きく関係しました。
聖武天皇の治世には、長屋王の変、天然痘の流行、藤原広嗣の乱など、政治的・社会的な混乱が続きました。
聖武天皇は仏教の力によって国家の安定と人々の幸福を実現しようと考え、その象徴として大仏造立を進めました。
華厳宗大本山

大仏のより深い意味を知る鍵が華厳経です。
盧舎那仏は、世界のあらゆるものを智慧と慈悲の光で照らす仏とされます。
大仏の台座に刻まれた蓮華蔵世界の図にも、あらゆる存在が互いにつながりながら仏の世界を形づくるという華厳の思想が表されています。
大仏を造った四聖

東大寺では、聖武天皇、行基、良弁、菩提僊那の4人を「四聖」と呼び、東大寺建立に大きな役割を果たした人物として尊崇しています。
行基は、現在の大阪府や奈良県を中心に各地で社会事業や布教を行い、多くの人々から支持を集めた僧侶でした。
大仏造立では勧進を担当し、民衆の力を結集する役割を担いました。
東大寺には現在も行基を祀る行基堂があり、行基は東大寺の歴史を語るうえで欠かせない人物です。
良弁僧正は東大寺の初代別当になったと伝えられ、聖武天皇を支えて寺院の整備に尽力しました。
東大寺の東側にある開山堂には、国宝の良弁僧正坐像が安置されています。
普段は秘仏ですが、毎年12月16日の良弁忌に開扉されます。
大仏開眼供養で導師を務めたのが、インド出身の僧・菩提僊那です。
752年の開眼供養には、遠くインドから来た僧侶が関わっていました。
東大寺は、創建当初から日本国内だけで完結した寺院ではなく、国際的な仏教文化ともつながっていました。
八宗兼学の総合大学だった東大寺

現在の東大寺は華厳宗の大本山ですが、歴史をさかのぼると、もっと幅広い役割を担っていました。
東大寺は、華厳だけでなく、倶舎・成実・律・法相・三論・天台・真言など、さまざまな仏教の教えを学ぶ八宗兼学の寺として発展しました。
現在の大学に近い、仏教研究と僧侶養成の中心地だったといえます。
唐招提寺で知られる鑑真との関係も良く知られています。
中国から来日した鑑真は、奈良に戒壇を設けて正式な僧侶を育てる制度を整えました。
その戒壇院は東大寺にも置かれ、東大寺では鑑真が伝えた律学や受戒の作法が長く学ばれました。
東大寺と唐招提寺は、どちらも鑑真の来日によって大きな影響を受けた寺院なのです。
南大門には鎌倉時代の新しい技術が残る

東大寺の南大門をくぐると、鎌倉時代の復興の歴史に触れることができます。
1180年、平重衡による南都焼討ちによって、東大寺は大仏殿をはじめとする伽藍の大半を失いました。

この壊滅的な被害から東大寺を復興した中心人物が、重源上人です。
重源は中国へ三度渡った経験を持ち、中国の建築技術や文化にも通じていました。
その知識を生かして東大寺の復興を進め、現在の南大門にもつながる大仏様と呼ばれる建築様式を取り入れました。
南大門の巨大な構造と、左右に立つ金剛力士像は、この鎌倉復興を象徴する存在です。
運慶・快慶らによる金剛力士像は、筋肉の動きや衣の表現が非常に写実的で、奈良時代の仏像とは異なる鎌倉時代の力強さを感じさせます。


東大寺と法然
東大寺と他宗派との関係で特に興味深いのが、浄土宗の開祖・法然とのつながりです。
1180年の焼討ち後、東大寺の復興を進めていた重源は、法然とも交流がありました。

法然は重源の招きによって再建途中の東大寺を訪れ、1190年代に大仏殿で浄土三部経を講じたと伝えられています。
現在、大仏殿の西側にある指図堂は、法然ゆかりの場所として知られています。
もともとは大仏殿の計画図面を掲げたことから指図堂と呼ばれました。
江戸時代に浄土宗の信者によって再建され、法然上人の像を祀る霊場となりました。
法然上人二十五霊場の一つにも数えられています。
二月堂とお水取りを始めた僧
東大寺の東側にある二月堂は、大仏殿とは異なる歴史を持つ場所です。
毎年3月に行われる修二会、通称お水取りは、東大寺を代表する伝統行事です。
752年に始まったとされ、長い年月にわたって続けられてきました。
修二会と深い関係を持つ人物が実忠和尚です。
実忠は東大寺の開山・良弁の弟子で、修二会を始めた人物と伝えられています。
東大寺には実忠の像も伝わっており、良弁から実忠へと続く僧侶の系譜が、現在の二月堂の行事にもつながっています。
奈良の大仏と正倉院

東大寺を訪れる際には、近くにある正倉院にも注目したいところです。
正倉院は現在、宮内庁の管理となっていますが、もともとは東大寺の宝庫でした。
聖武天皇の遺愛品を納めた北倉、東大寺の仏具や法会に関わる品々を納めた中倉・南倉からなりたっています。
聖武天皇が亡くなった後、光明皇后は天皇の遺品を東大寺の盧舎那仏に献納しました。
それらが正倉院宝物として今日まで伝わっています。
東大寺の歴史を知ることは、そのまま正倉院に残された天平文化を理解することにもつながります。



大仏殿で見るべきもう一つの国宝

大仏殿に入った際には、大仏だけでなく正面に置かれた八角燈籠も注目です。
この燈籠は奈良時代から残る貴重な文化財で、東大寺が二度の大きな兵火を経験したにもかかわらず焼失を免れました。
火袋には楽器を奏でる「音声菩薩」が浮彫りにされ、天平時代の繊細な造形を見ることができます。

江戸時代にも続いた復興の歴史
東大寺は鎌倉時代に復興した後も、戦国時代に再び大きな被害を受けました。
1567年の三好・松永の乱によって大仏殿などが焼失し、本格的な復興には長い時間がかかりました。

復興を進めたのが公慶上人です。公慶は全国から寄付を募り、東大寺の再建を進めました。そして、1709年に現在の大仏殿が完成しました。
現在の大仏殿は奈良時代の創建当初より規模が小さくなっていますが、それでも世界最大級の木造建築として知られています。







