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渡辺房男の「円を創った男 小説・大隈重信」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

大隈重信の二十九歳から三十三歳までの三年余りの時期を中心に据えて書かれている。この期間に日本の貨幣「円」が誕生した。

あとがきでも書かれているように、この慶応四年(一八六八)から明治四年(一八七一)が『日本という国の土台が貨幣と財政面でようやくでき上がり、先進欧米諸国から明治新政府が認知された時だ。』

明治政府が考えていた「圓」は貨幣を軸に置いたものだが、この発行過程で、紙幣の検討もされている。

先行して発行されていたのは、太政官札というものだった。わずかの期間しか流通しなかった。

これは金銀との交換ができない不換紙幣である。つまり、この太政官札は金本位制でも銀本位制でもない金銀の裏付けがない紙幣だったのである。混乱期ではあったが、現在と似た性質の紙幣が流通していたことになる。

この紙幣の性質について、小説ではこう書かれている。

『紙幣の価値と通用力は金銀の裏付けでなく、それを発行する政府に対する信用にある。大丈夫です。伊藤さん。今の日本は、三岡殿が太政官札を発行した二年前と全く違う状況になっております。新政府への信頼が増したこの時期にこそ、一挙に手を打つべきだ。布告を反故にし、国民を騙すことになるや知れませんが、時の利を素早くおのれの物とするのも、まつりごとの要諦ではありませぬか』

「政府の信用」が担保になっているというのだ。逆をいえば、政府の信用がなくなると、価値が下落する貨幣であるということである。

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内容/あらすじ/ネタバレ

慶応四年一月。大隈重信、二十九歳。佐賀藩の貿易仕置を担当する代品方として佐賀藩長崎屋敷にいた。

土佐商会のあるあたりに火が出た。重信は佐々木高行や海援隊が心配でかけつけた。土佐商会では岩崎弥太郎が指示を出していた。

先刻、正月の鳥羽伏見の戦いで幕府軍が大敗したことを知ったばかりである。

藩屋敷に戻り、鳥羽伏見の状況を藩庁へ伝えるための書状を書き、副島種臣のいる到遠館に出向いた。副島は大隈より十上である。共に、勤皇派の義祭同名の同志である。

佐賀藩は鳥羽伏見に兵を出せないでいた。それも藩父鍋島閑叟を説き伏せることができなかったためである。

京、大坂での倒幕軍に出遅れた今、佐賀藩は長崎でできることをするにやらなければならない。

長崎奉行が金を持って逃げようとしていた。それを間一髪で阻止した。一万七千両あった。思ったより少ない。

二百年以上にわたって外国との交易を独占した長崎奉行所が崩壊した。

新政府は一月二十五日に早くも九州鎮撫総督として沢宣嘉を送ってきた。沢は総督参謀の長州藩士井上馨とともにやってきた。

重信は長崎での外国貿易の管理と運営を担当することになった。さらに三月になると外国事務局の判事となった。

重信はこの時期に京や江戸から遠く離れた長崎にいることが口惜しくないわけではない。

井上馨が大隈重信を呼んで、京にいる木戸孝允が多いに買っていると言った。

長崎に大きな問題が浮上してきた。フランス寺に関することだ。隠れキリシタンが維新の報を聞いて公然とミサに参列しはじめたのだ。新政府は幕政時代を踏襲してキリスト教を禁じている。

沢は強硬な反キリシタン派である。これを弾圧しようとするが、今キリシタンの一人でも血が流れれば、諸外国は新政府を見限る可能性がある。

この問題をはかるため、重信は京に向けて出発した。重信には外国事務局判事として外国公使団と折衝することになった。重信の腹は決まっていた。生まれたばかりの政府とはいえ、国法や長い間培われた国の習慣を優先すべきであり、外国の介入を許すべきではない。

英国公使のハリー・パークスに対して重信は内政干渉を盾に一歩も引かず交渉した。

重信は長崎にももどらず、そのまま横須賀にある幕府の製鉄所を引き継ぐ仕事にあたった。製鉄所を引き取るためには、まとまった金を運んでフランスと交渉する必要がある。

木戸孝允は横須賀の製鉄所と、アメリカ製の軍艦を一隻ぶんどってこいといった。

それに、江戸と横浜には全く金がない。大坂で集めた金を多少だが渡され、あとは重信の才覚で何とかしてくれと言われた。重信は唖然とした。

重信が江戸城西の丸の東征大総督府に乗り込んだ。そこには大村益次郎が待っていた。

大村はおもむろに重信の持ってきた金を渡せと言った。重信は断り、直に横浜に向かった。だが、そこで実感したのは、まずは江戸の平定が先という事実だった。大村に金を渡すしかなかった。

すると、二日後に大村は江戸を制圧した。

江戸の平定が終わっても、重信には横須賀製鉄所の接収という難問が待っている。今や一文無しとなっている。万策尽きた重信の前に薩摩藩の家老・小松帯刀が現れ、金の捻出を考えた。

そして、英国東洋銀行の融資を仰ぐことにした。融資を成功させるためには英国公使パークスを説得するしかない。

パークスは直に協力してくれた。そして、忠告をした。外国の金と正しく交換できる統一された貨幣がなければ近代国家として船出できない。

こうして、重信はすべての仕事をやり遂げた。

統一された日本の金。重信はパークスから渡された宿題を考えている。今流通している多種多様な通貨の実態は、たしかに外国人にとって不便であろう。京の太政官では新しい鋳貨を造り出す議論が行われているらしい。

王政復古はなっても、貧弱な石高から出発した新政府の金融財政面を引っ張ってきたのが越前・福井藩の藩政改革を成功に導いた三岡八郎だった。

薩摩の五代友厚と話していると、五代は三岡の思い切った策に京や大坂の商人が困惑しているといった。問題なのは、銀目停止令の始末と、三岡の建議で発行した太政官札の流通がうまくいっていないことだった。

銀目手形を金目に書き換える時の換算値がふらついており、太政官札は全く信用を得られていなかった。特に太政官札は額面の四割の値打ちしかなかった。

さらに困るのは、政府が質の悪い金を造り出していることだ。それに乗じて諸藩鋳造の贋金が出回っている。

重信はイギリス水兵事件の解決のために長崎に戻った。目処がついたころ、井上馨がやってきた。井上は、これからの表舞台は外交と会計だと言った。

重信は大阪に戻る途中、兵庫で伊藤博文に会った。伊藤は藩を潰すために動いてくれないかといった。版籍奉還の話である。

重信は外国官副知事を拝命した。その場ですぐに、外国官副知事として太政官札のことについて出来ることはあるかと尋ねられた。突然だったが、重信はわが意を得た思いである。重信は三岡の失策を非難した。

その後、横井小南の暗殺によって後ろ盾を失った三岡八郎と同じ会計官御用掛になる。

大隈重信が大阪の貨幣鋳造所を訪ねた。そこで久世治作という貨幣鋳造の手練れといわれる男と会うことができた。銭のことなら当代一のもの知りだと伊藤や五代がいっている。

新しい貨幣は諸外国同様に円形にすべきではないかと久世は言った。そして貨幣単位について、重信は久世と夜を徹して議論した。

重信たちは貨幣の形状を円形にし、両・分・朱という四進法を廃止し、欧米と同じ十進法に変える結論に至った。

次に名称である。清国では「圓」という表記をしている。日本でも圓の俗字である円という文字が使われることがある。それは小判の形が丸いので、エン金と呼ぶことがある。

そして、決定的なのは、清国の「圓」が消え去ることになっている。とすると世界中で圓を刻印すると、それは日本独自の鋳貨となるわけである。

単位は決まったものの、出回っている太政官札と、諸藩鋳造の贋金をどうするかという問題が残っている。重信が慄然としたのは、その贋金の広がりである。

東京の両替屋に集まる二分金には十三種類の贋金が混じっていたという。官軍に抵抗した会津藩だけでなく、勤皇諸藩も贋金を鋳造していたのだ。これが国の内外に弊害を引き起こしていた。

そうした中、地方で農民の騒擾が起きた。厳重な取り締まりを行わざるを得ない苦渋の決断が待っていた。

新貨幣の概要はほぼ固まったが、品位をどうするかという問題があった。本位貨幣を金とするのか銀とするのかという難問だ。

そして、溢れている太政官札の権威を高めるために、新貨幣と交換する布告を早く出す必要がある。

だが、世情は凶作と幣制の混乱という不穏な事態であった。

明治三年(一八七〇)。太政官札は重信の予想通り、相場が安定した。贋札も出回っている。

贋太政官札を根絶するためには、誰もまねのできない精巧な刷りの紙幣を新規に発行しなければならない。それも両ではなく、圓でだ。重信の考えはそこに至った。つまりは圓紙幣の発行である。

アメリカに行っている伊藤から、本位制についての書状が届いた。世界の大勢は金を基本とする制度になるという。重信は驚愕した。すでに銀を本位とすることに決定していたからだ。

本書について

渡辺房男
円を創った男 小説・大隈重信
文春文庫 約三二〇頁

目次

第一章 慶応四年一月、長崎に大隈あり
第二章 国法はゆるがぬものなり
第三章 借金は恥にあらず
第四章 太政官札危うし
第五章 会計官御用掛を拝命せり
第六章 円と命名せり
第七章 贋金は根絶すべし
第八章 新貨幣いまだ成らず
第九章 新紙幣も発行すべし
第十章 新貨条例成る
第十一章 その後の大隈重信
あとがき
参考文献

登場人物

大隈重信
綾子
井上馨
伊藤博文
久世治作
副島種臣
三岡八郎
沢宣嘉
木戸孝允
三条実美
岩倉具視
大村益次郎
小松帯刀
五代友厚
大久保利通
ハリー・パークス
佐々木高行
岩崎弥太郎