時代の申し子であるハンニバルとスキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)という二人の天才が登場すします。
ハンニバルはそれまでの戦闘の常識を覆す戦の革命児でした。
このハンニバルにとっての悲劇は、最も優秀な弟子が敵方の将スキピオとして現われたことです。
そのスキピオはガチガチに確立された政治体制の中から生まれた共和制の異端児でした。
スキピオは本来なら就くことができないはずの役職にも異例の扱いを受けて就いています。時代のなせるわざです。
そのいずれを好むかは人それぞれでしょうが、カエサル登場前のローマにおいて最も輝きを放った人物達です。
本書「ハンニバル戦記」では紀元前二六四年から前一三三年までの百三十年間が対象となります。
カルタゴとのポエニ戦役を中心に、ギリシアやシリアまで及ぶ対外戦争の時代です。
筆者は言います。「プロセスとしての歴史は、何よりもまず愉しむものである。」「プロセスであるがゆえに楽しみともなり考える材料も与えてくれる、オトナのための歴史である。」
塩野七生氏の言うように、オトナのための歴史を愉しみましょう。
覚書/感想/コメント
紀元前二六五年。
ローマの元老院に救援を請うメッシーナの代表が来ていました。
メッシーナはシチリアの強国シラクサの矢面に立たされていました。
シチリアの西半分はカルタゴの支配下にあります。
ですが、ローマ軍団はいまでに一度も海を渡ったことはありませんでした。軍船はおろか、輸送船団も持っていませんでした。
第一次ポエニ戦役の最初の年となる紀元前二六四年。
メッシーナ救援に向かうローマ軍を率いた執政官は、アッピウス・クラウディウスでした。
二年目にはヴァレリウスとオタチリウスの二人の執政官を送り込みました。四個軍団の投入です。
シラクサの僭主ヒエロンはローマと同盟を結び、彼の存命中守り続けます。それはローマが苦境に陥った時もそうでした。
ですが、逆にカルタゴの方が危機感を強めてしまいました。
カルタゴはシチリア戦線に本気で取り組むことになりました。
やがて、ローマは後戻りできないところまで追い込まれ、カルタゴとの全面戦争に突入します。
第一次ポエニ戦役はシチリアを戦場に展開したのです。
軍船建造のノウハウのないローマはカルタゴの船を模倣することにしました。
この船団を率いたのはスキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)の祖父グネウス・コルネリウス・スキピオでした。
ですが、海軍のなかったローマの初めての海軍の将となったスキピオは早々と捕虜となります。
もう一人いた執政官のドゥイリウスは船に「カラス」と名付けられる新兵器を考え出しました。これが功を奏し、ローマ海軍はカルタゴ海軍を破ります。
そして、第二戦、第三戦もカルタゴ相手に勝ってしまいます。長期にわたって実戦経験のない軍隊は弱体化を避けられません。
カルタゴは海運国ではあっても、海軍国ではなくなっていたのでしょう。
ですが、思わぬ落とし穴がありました。海になれていないローマ軍は暴風雨に遭い、多くの船と人を海にのまれてしまったのです。
紀元前二四九年、戦役の十六年目。
ローマの疲弊も目に見えるようになっていました。海難事故による損失が響き、成人男子数が減少し、国庫も空になっていました。
一方のカルタゴは大海難事故を起こしておらず、また兵士も傭兵であることから自国民の数には影響していませんでした。
消耗度合いはローマの方が強かったのです。
そのカルタゴがはじめて才能豊かな若い武将を送り込んできました。ハミルカル、後にローマの悪夢となるハンニバルの父です。
ですが、ハミルカルの前線もむなしく、第一次ポエニ戦役は二四一年に終結します。
そして、カルタゴは四百年にわたるシチリアの権益の全てを失い、地中海の西半分を失いました。
ハミルカルはハンニバルを連れてスペインに移り住みました。そして、ハミルカルが移住してきてから九年後にはスペインの東南部を勢力圏に治めます。
このハミルカルのあとを継いだのは娘婿のハシュドゥルバルでした。有能な人物でしたが恨みを買い殺されてしまいます。
この後を継いだのが二十六歳になっていたハンニバルでした。
二十九歳になったハンニバルは全軍を率いてピレネー山脈を越え、ローヌ川を渡り、アルプスを越えイタリアに侵攻します。
当時、ローマの防衛戦は北を除き、鉄壁でした。その北もアルプス山脈がそびえ立っています。
本拠地カルタヘーナを出発したハンニバルの軍団は歩兵九万に騎兵一万二千、三十七頭の象でした。本拠地の防衛には次弟のハシュドゥルバルに託しました。末弟のマゴーネは遠征軍に同行しました。
ですが、この軍勢は途中ローヌ川で戦力を失い、アルプスを越えた時には二万の歩兵と六千の騎兵までに減っていました。ハンニバルはすぐに一帯のガリア人の懐柔に努めました。
ハンニバルは第一次ポエニ戦役でカルタゴが敗北したローマ連合の鉄の結束にくさびを打ち込むつもりでいました。
イタリアを戦場とすることに執着したのは、同盟諸国をローマから離反させるためです。
ローマはハンニバルに連戦連敗します。
ローマは独裁官擁立を決め、ファビウス・マクシムスが就任します。
かれの戦略はただ一つ。ハンニバル相手には戦闘に訴えないこと。そして敵軍の消耗をまつ。
ですが、この戦略は成果が見えるまでに時間がかかります。
それにしびれを切らしたローマは積極策にでて裏目にでます。
そしてローマは「カンネの会戦」で歴史的な敗北をします。
追い打ちをかけるように、ガリアの地で二個軍団壊滅の報がもたらされました。
合計で八万の兵士を失ったのです。
ローマはことごとくハンニバルの騎兵力に負けていました。それに気がついていながらも、騎兵力の増強に結びつけなかったのです。
これを見て、ローマ連合は南の一角から崩れていきます。痛打はカプアの離反でした。
紀元前二一五年からのローマは東にマケドニア、南はシラクサ、西はスペイン、北はガリア民族、イタリアにはハンニバルがいるという最悪の状況に陥りました。
対する策は、東西南北全てでハンニバルへの補給路を断つことであり、ハンニバルを孤立させることでした。
ローマは敵には将はハンニバルしかいないことを知っていました。要はハンニバルと戦わなければいいわけで、彼が率いていないカルタゴ軍にはローマ軍は容赦なく攻撃を加えました。
やがて、ローマの反撃も功を奏しはじめ、ハンニバルを南イタリアに釘付けにすることができるようにあります。
元老院に年端もいかない若者が現われました。
二十四歳のプブリウス・コルネリウス・スキピオ、後にスキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)と呼ばれる若者です。
彼は三十歳以上でなければ資格を得られない元老院議員でもありませんでしたが、二個軍団の総指揮をまかされ、スペインへと派遣されました。
スペインに着いたスキピオは周到な準備をし、たった一日の戦闘で本拠地のカルタヘーナを攻略しました。
ですが、スペインのカルタゴ主軍団は健在です。これに対抗するため、重装歩兵の片刃の剣を両刃の剣に変えます。
後々までスペイン剣(グラディウス・ヒスパニエンシス)と呼ばれ、重装歩兵の公式剣となるものです。このように、スキピオは武器と防具の改良をしました。
その頃、イタリアではローマが南伊の三大都市国家を再復し、ハンニバルを長靴の先端に追いつめました。
スペインではベクラの会戦が行われました。スキピオの犠牲者は数えるほどだったといいます。次にスキピオはイリパでもカルタゴ軍を完膚無きまでに叩きつぶしました。
スキピオは戦時中の特例ということもあり、本来ならなれない執政官となりシチリアに赴きます。
すぐに軍団の編成に着手、そして、この後スキピオはアフリカの地を踏む。ハンニバルがやったことと同じことをスキピオはやろうとしていました。
カルタゴは自国領内での会戦で敗北を喫して、完全なパニック状態になりました。
そして、ローマから提示された条項の全てを受け入れます。
ですが、これも決裂し、スキピオとハンニバルの決戦が行われました。「ザマの会戦」です。これで、ローマの勝利は決定的となり、第二次ポエニ戦役は終わりました。
この余韻のさめやらぬ内に、ローマはマケドニアに対してお灸をすえる必要に迫られます。これを皮切りに、ローマはシリアとも対決し、このいずれも攻略しました。
アフリカヌスの尊称で呼ばれ、元老院の「第一人者」の地位を長年独占したスキピオは反スキピオのリーダー格のマルクス・カトー(大カトー)の執拗な追求に、ついにローマを去ります。失脚したのです。
スキピオが失脚し、死んだ後に、マケドニア王国をローマは攻めざるを得なくなり、王国を滅亡させます。そして、ついにカルタゴも滅亡の日を迎えました。
本書について
塩野七生
ローマ人の物語2
ハンニバル戦記
新潮文庫 計約六二五頁
目次
読者へ
序章
第一章 第一次ポエニ戦役(紀元前二六四年~前二四一年)
第二章 第一次ポエニ戦役後(紀元前二六一年~前二一九年)
第三章 第二次ポエニ戦役前期(紀元前二一九年~前二一六年)
第四章 第二次ポエニ戦役中期(紀元前二一五年~前二一一年)
第五章 第二次ポエニ戦役後期(紀元前二一〇年~前二〇六年)
第六章 第二次ポエニ戦役終期(紀元前二〇五年~前二〇一年)
第七章 ポエニ戦役その後(紀元前二〇〇年~前一八三年)
第八章 マケドニア滅亡(紀元前一七九年~前一六七年)
第九章 カルタゴ滅亡(紀元前一四九年~前一四六年)
「マーレ・ノストゥルム」
年表
参考文献
映画 ハンニバルを扱っている数少ない映像があります。ガーディアン ハンニバル戦記(2006年)も別の視点でこの時代を眺めることができます。