【式内社】楯縫神社の参詣記-歴史や見どころは?(茨城県稲敷郡美浦村)

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国道125号線から一本奥に入ったところにありますので、分かりにくいです。車のカーナビで案内通りに行くと、微妙に違うところに案内されました。

楯縫神社は、古代社格制度の常陸国の式内社です。

楯縫神社の主祭神はフツヌシです。楯縫神社では普都主命と書きます。

フツヌシと言えば香取神宮ですが、香取神宮では経津主神と書きます。

普都主も経津主も同じフツヌシを指しています。

近くにある中郷の阿彌神社竹来の阿彌神社も、経津主が祀られています。

楯縫神社の伝承では、葦原中国平定の後、フツヌシは木原で甲楯を脱ぎ、高来里で登天したと言います。

甲楯を脱いだことから「楯脱(たてぬぎ)」の地名となり、後に「楯縫(たてぬい)」になったそうです。

二つの阿彌神社のうち、竹来にある阿彌神社にはフツヌシ降臨の伝承がありますので、古くから楯縫神社と竹来の阿彌神社には強いつながりがあるようです。

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楯縫神社の歴史

楯縫神杜

美浦村大字木原

楯縫神社の祭神は普都主命(ふつぬしのみこと)。元県社で信太荘の一の宮として崇敬されてきました。『常陸風土記』には、「普都大神が国土鎮定の大任を果たされ、高天原に復命のため、身につけられていた器・杖・甲・才・楯・剣・玉珪などをぬぎ、やがて天より迎えの白雲にのっていかれた」という伝えがあることから、社伝にはこの地を楯脱と称しのち楯縫に改められたとあります。

創建については、紀元十八年、推古天皇十六(六〇八)年、大同二(八〇七)年の三説があります。文明八(一四七六)年の再建は江戸崎城主土岐原景成が外護し(棟札)、天正十七(一五八九)年の再建は木原城主近藤利勝の寄進によるものです。境内北の方に杉の巨木の根幹があり、木原の地名の起こりといわれています。

指定文化財

狛犬 木造(ケヤキ材、一木造り) 一対

阿形像高さ五四センチメートル
吽形像高さ五〇センチメートル

狛犬はシルクロードを通って日本に伝わりました。平安時代に、御所の中で天皇や皇后の御帳台の垂れ布の裾を押さえるために置かれた鎮子、または魔除けの意味で獅子と狛犬とが対になった置物が神を護る目的で神社に持ち込まれるようになりました。最初は社殿の中に置かれるようになり、主に木や焼き物で造られていましたが、江戸時代になると社殿の中から外へ置かれるようになり、石造で参道などに置かれることが多くなりました。狛犬は、向かって右側が獅子(唐締子)で角が無く口を開けた阿形像、向かって左側が犬(高麗犬)で角があり口を閉じた吽形像で、二体一対となっています。

楯縫神社の狛犬はケヤキ材の一木造りで彩色は施されていません。制作年代は、一五〇〇年代(室町時代)と推定されます(社伝)。

美浦村教育委員会(二〇一三年)

延喜式内小社

一の宮楯縫神社 元県社

祭神 普都主命

盤筒男盤女二神え卸子で武甕槌命と共に高元原より降って此の国を平定し給う時に自ら齋主神となって神託を祀り給うた、その為後世戦陣の門出には命を祀るのが例となった、昔古大神葦原を平定し復命の時此の地に暫時留り賜へ楯矛を脱きて御魂留賜へし地により此所を楯脱としていたが同年七月三日城主近藤式部大輔藤原和海の原と境内神代大杉五尺八尺余の霊木の繁り生ら地なるが故に大木の木とを合して木原と村名を改めた。昔古には鹿島神事と申して氏子中を日良度をいい定めて総氏子(三十三郷五十有余村)時を定めて社前に集会いたし御雷大神普都主大神の神輿を供奉し霞ケ浦を渡御竹来二の宮阿彌神社へ送り奉る古式祭が行われた往古は御神領五十三町歩余ありしが興国年中(西一三四〇)高師冬以賊軍をもって信太の荘を貴取らんが為土人屋代信経と云う者を郷向道をし信太の荘を侵し此の時神領残掠奪され無禄となる。

勤請年歴 人皇三拾四代推古天皇の十六年の大同二年再建(八〇七)、文明八年再建(一四七六)天正十七年藤原利勝拝殿寄進(一五八九)、嘉永七年再建(一八五四)

例大祭 五月十五日 神幸祭 六月二十一日~二十三日
新嘗祭 十二月一日 祈年祭 二月二十五日

祭神

主祭神

普都主命(普津主神、普都主大神)

配祀神

大己貴命二座、須佐之男命宇迦魂命二座、皇産靈命、市杵島姫命、熊野加夫呂岐命

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楯縫神社の見どころ

参道

木々が立ち並ぶ参道です。鬱蒼としています。

二の鳥居

手水舎

拝殿と本殿

場所と地図

〒300-0420 茨城県稲敷郡美浦村郷中2988

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