
会津若松市に来たから、鶴ヶ城と飯盛山は押さえておきたい場所
飯盛山への入り口
白虎隊で有名な飯盛山への入口。右手に見えるのはエスカレーター。有料 (^_^;;
会津若松が2013年の大河ドラマ「八重の桜」の舞台の一つでもあることから、賑わっている~~。

白虎隊記念館
エスカレーターは使わずに、歩いて登ることにしました。
途中に白虎隊記念館がありましたが、この日は入らず。そのまま過ぎて白虎隊の墓と自刃の地を目指します。



太夫桜
白虎隊記念館の並びにある太夫桜。大きな桜の木なので、咲き誇る季節はさぞ立派でしょう。やはり、桜の季節に来ないといけないですねェ。


厳島神社(飯盛山由来の地)

飯盛山の名前の由来の神社
会津若松の厳島神社。白虎隊士の墓、自刃の地、栄螺堂(さざえどう)を訪ねる途中で立ち寄りました。飯盛山の由来となる神社です。
創建は南北朝時代の永徳/弘和年間(1381~1383年)と言われます。
多数の童女を従えて現れた美しい霊妃のお告げにより、この地に神社を建てることになったと言われます。
社殿を建てているときにも、童女たちが姿を現し、人夫達に小豆ご飯を振る舞ったそうです。この小豆ご飯がいくら食べても減らなかったことから、「飯盛」の地名になりました。
以前は宗像神社と称していたようで、当時は、飯盛山も辯天山と呼ばれていました。
歴代の芦名氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、保科氏(松平氏)の崇敬社でした。
寛政8年(1796)には別当である正宗寺の三匝堂(さざえ堂)が建立されました。この場所のすぐ上にあります。
明治時代初頭の神仏分離令により正宗寺が廃され厳島神社と改名。神仏分離については安丸良夫「神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―」に詳しいです。
主祭神:市杵島姫命


戸ノ口堰洞穴
戸ノ口堰洞穴は、猪苗代湖の水を引くために作られました。のべ5万5千人の人夫が約3年の月日をかけ完成させました。
白虎隊の隊士たちが城に戻る際に、この洞穴を抜けたと伝えられます。


栄螺堂(さざえどう)

栄螺堂(さざえどう)。正式名称は円通三匝堂(えんつうさんそうどう)。国指定重要文化財。寛政8年(1796年)建立。
名前の由来は、その構造、外観にあるようです。特徴的なのは、往路しかない点です。
江戸時代後期の特異な建築様式の仏堂である。堂内は回廊となっており、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっている。仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて、右回りに三回匝る(めぐる)ことで参拝できるようになっていることから、本来は三匝堂(さんそうどう)という
wikipedia
こうした建物は、江戸後期に関東から東北にかけて建てられ、長勝寺(青森県弘前市)、長禅寺(茨城県取手市)、曹源寺(群馬県太田市)、成身院(埼玉県児玉町)、の西新井大師(總持寺・東京都足立区)などがあるそうです。
だいぶ前ですが、成身院に行ったことがあります。


ボヤけてしまった(苦笑)


栄螺堂(さざえどう)のそばにある宇賀神堂と、飯盛山の中腹からの景色。右手に進むと栄螺堂(さざえどう)。後ろが飯盛山の上。
宇賀神堂は寛文年間(1661年~1672年)、松平正容が厳島神社の傍社として建立しました。


白虎隊の墓
白虎隊士の墓に至るまで、厳島神社や栄螺堂(さざえどう)を通るので、是非立ち寄りたいところです。
特に栄螺堂(さざえどう)は独特の建築様式なので、中に入ってみることをお勧めします。
さて、飯盛山の中腹にある白虎隊士の墓。飯盛山を上ると、広場に出る。その左手に墓があります。
右手奥に進むと自刃の場があります。



イタリー記念碑
1928年、白虎隊士をたたえてローマ市民からとして、当時のイタリアのムッソリーニ首相から贈られました。
白虎隊とイタリアのファシスタ党とは、一脈相通じるものがあるという理由で送られたそうですが…どの点が??

白虎隊自刃の地
白虎隊自刃の地から鶴ヶ城を眺めます。遮るものがなく、遠くに小さくお城がかすかに見えました。
ここから戦況を見ていた隊士が、市中火災を鶴ヶ城の落城と誤認して総勢20名が自刃を決行したと言われます。
事実は、負け戦で敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊士らが、城が焼け落ちていないことを知りながらも飯盛山で自刃を決行したということのようです。
こう言ってしまうと世代がばれるのだが、1986年のテレビドラマ「白虎隊」のシーンを思い出します。堀内孝雄の主題歌「愛しき日々」も思い出しながら、感慨深かったです。




飯盛山の地図
旧滝沢本陣横山家住宅 歴代会津藩主も使った本陣[国の史跡]
飯盛山から降りてきて、右手近く。会津藩の本陣跡。国指定の史跡。
旧若松城下から白河、江戸に至る旧白河街道沿いにあり、会津藩主が白河街道を通る際の休息所として使用されていたそうです。


