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安部龍太郎の「関ヶ原連判状」を読んだ感想とあらすじ(面白い!)

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覚書/感想/コメント

関ヶ原の戦いでは、東軍と西軍のどちらにつくか。大名はそれぞれの思惑から揺れ動いた。

本書はそうした思惑の中で動いている細川幽斎を主人公にしているのだが、この思惑のスケールが違う。

その思惑も、作者が数々の史料の中から読み解き、説得力のある構成となっているため、従来語られてきた関ヶ原の合戦の裏舞台を凌駕する内容となっている。まちがいなく斬新で革新的な小説である。

本書のように、細かく史料を精査していけば、他にも幽斎のような、もしくは別の思惑で動いていた大名がいるかもしれない。そうした本も読んでみたいものである。

さて、主人公となる細川幽斎は足利十二代将軍義晴の実の子で、義輝、義昭は異母兄弟になる。織田信長と同じ天文三年(一五三四)生まれの六十七歳。

剣豪の塚原卜伝から「一つの太刀」を授けられたともいわれ、武人としても名高い。強力の持ち主で、突進してきた牛の角をつかみ投げ倒したという逸話もある。

その一方で、この時代の最高の教養人の一人でもあった。それは本書でもキーワードとなる古今伝授の継承者であることからもうかがえる。
古今伝授。本書からこのあまり知られない秘伝の伝承についてまとめてみる。

「古今伝授とは古今和歌集を伝えることだが、平安時代中頃、歌学がさかんになると、六条家や御子左家などの歌学の家があらわれ、古今和歌集の解釈に好んで秘説をたてるようになった。門外不出の秘伝とされ、弟子の中でも限られたものにしか伝授を許されなかった。

一種の家元制度のようなものだが、一概にそうとは言い切れないのは、和歌にはあらゆる隠喩や比喩がちりばめられ、二重三重の意味にとれるような仕掛けがなされているからだ。それは闇に葬られたこの国の真の姿を知ることにもつながる。

この秘伝は二条家に受け継がれ、二条家の没落後には時宗の頓阿が正統を継ぐ。頓阿から東常縁、飯尾宗祇と続き、近衛尚通、三条西実隆、牡丹花肖柏の三流に分かれるが、三条西家の伝授だけが残り、細川幽斎にうけつがれた。いまやこの秘伝は細川幽斎の頭の中だけに生きている。

古今伝授の大部分は歌集の一般的な講釈で卷第一春歌上から卷第二十までを読み解いていく。最後に仮名序、真名序の講釈があって、おもむろに秘伝の伝授に入る。秘伝は口ではなく、紙に書いて一枚ずつ渡していくので、切紙伝授と呼ばれる。」

なぜこの古今伝授が本書において重要なファクターとなるのか。それは、当時の朝廷の情勢にあると以下のように作者はいう。

「後鳥羽上皇とともに承久の変を起こして佐渡に配流となった順徳天皇も「禁秘抄」に明記しているように、天皇の地位にあるものは学問、芸能に精進すべきで、武辺は武家に任せ、朝廷は文化に生きよというのだ。
だから、三種の神器のように文化においても正統性を保証するものが必要なのだ。」

それを古今伝授にもとめよと幽斎は説いたのだ。つまり、古今伝授を朝廷の権威付けにせよということである。

古今伝授の継承だけを考えれば細川幽斎はすぐにでも行えた。というのは、天正十六年八月には島津義久、同年十一月には中院通勝から伝授に際しての誓紙を取っていた。いつでもこの二人に古今伝授をさずけることができた。だが、そうはしなかった。細川幽斎は皇室への伝授にこだわった。

なぜ?その裏にはどういう思惑があったのか?

古今伝授をたてに、細川幽斎がめぐらした策とは?

そして、もう一つ。古今伝授とともに細川幽斎が抱える豊臣家の権威を失墜させるという豊臣秀吉の密書の中味とは?

天下大乱を前に、細川幽斎の策謀はいったいどうなるのか?

内容/あらすじ/ネタバレ

石堂多門は自ら鉈正宗と名づけている刀を腰に差している。その多門の目の前で、黒いほおかむりをした男が小脇に藤色の包みを抱えながら走っている。武家の娘とおぼしき女が、その男をつかまえてくれと叫んでいる。

多門は男を鉈正宗でなぐりつけ、包みを取り返した。女は千代と名乗った。

豊臣秀吉が死んで一年半。天下はふたたび大乱の兆しを見せ始めていた。この日、石堂多門は細川幽斎と会う約束となっていた。

細川幽斎は今朝、八条宮智仁親王から送られてきた誓紙を見ていた。古今伝授を受ける時に弟子が師に差し出すものである。後陽成天皇の弟である智仁親王とて例外ではない。

この誓紙を得て、幽斎は今日慶長五年(一六〇〇)三月十九日から親王への伝授を始めることにしていた。

多門は幽斎を訪れた。幽斎からの仕事は、金沢まである人物を送り届けてもらいたいというものであった。前田家家老の横山大膳長知である。

昨年以来、加賀の前田家と徳川家康は厳しく対立していた。家康暗殺の陰謀のためである。

この事をめぐって前田家の意見は真っ二つに割れていた。一つは家康と雌雄を決すべきとの意見、もう一つは家康との和解である。

前田利長はさんざん迷ったあげく、大膳に和解の道を探るように指示をした。上洛した大膳は家康との交渉の前に細川幽斎を訪ね、方策を相談した。そして幽斎は家康が利長の母・芳春院を人質にすることで和解してもいいという意向を突き止めたのだ。

智仁親王への古今伝授は順調に進んでいた。武人であり政治家でもある幽斎は、古今伝授をさずけることによって智仁親王を利用しようという魂胆があった。天下の大乱を前に、古今伝授によって朝廷を動かせると考えたのも、秘伝の価値を知り抜いていたからである。

一月前に幽斎が大膳に授けた策は、今度の大乱において徳川方にも豊臣方にも与せず、前田家と細川家が独自の勢力を作るというものだった。第三の勢力を作り、朝廷の後ろ盾を得て独自の動きを画策しようというものである。

切り札は二つ。一つは古今伝授である。もうひとつは、豊臣秀吉の密書である。もしこれが公となれば豊臣家の威信は失墜するほどの秘事が記されている。

この策には前田利長の母・芳春院も合意していた。

天下の大乱の兆しをみせていた。会津の上杉景勝が人夫をあつめ新城の建築や戦の備えを固めていた。

加賀金沢へ横山大膳一行を送ることになった石堂多門は困難な状況に追い込まれていた。横山大膳が着くなり蟄居に追い込まれ、同行していた千代も監禁されてしまったのだ。

この窮状を知った幽斎は古今伝授を中断し、金沢へ向かった。

徳川家康は上杉討伐の軍を動かすことにした。これには家康なりの思惑があった。そして同じく石田三成にも思惑があった。だが、ここにきて思いがけない不都合が生じた。それは加賀の前田利長が離反したことである。

どうやら細川幽斎が裏で動いているようだ。

そして、当の幽斎は親王への古今伝授を終わらせることなく丹後へ戻ることになった。息子の忠興らが兵を率いて上杉討伐に出陣したため、留守居のためである。一方で、これは計画していたことでもあった。今度の計略を成功させるためには、古今伝授を終わらせるわけにはいかなかったのだ。

幽斎は田辺城へ移り、籠城の支度を始めた。そして石田三成は細川家討伐の命を下した。

田辺城を一万数千の兵が囲んだ。対する城兵は五、六百。十日も支えられないことは承知だが、古今伝授を武器に朝廷を動かし、大坂方が手を出せない状況と作り上げようとしていた。

この時点で、家康に従って会津に向かった軍勢は五万二千。徳川本体をあわせても九万あまり。対する大坂方は十八万五千。兵力的には大坂方が圧倒的に優位に立っていた。

智仁親王からの使者が田辺城に来た。細川家と大坂方は一時的な休戦状態に入った。和議の使者だったが、幽斎はこれを断った。そのかわり帝の勅命での和議なら、そむくわけにはいかないという。

そして、いまや天下の耳目が伏見城と田辺城の両城に集まっている中、帝の勅命によって救い出されたとするなら、誰もがその理由を知りたがるにちがいない。古今伝授を天下に知らしめるまたとない機会ではないかという。幽斎にははじめからこうした計略があったのだ。

この勅命に関して、朝廷ではどう対処するか揺れ動いた。今の天皇は豊臣びいきである。ここで幽斎に勅命を出せば徳川についたことを意味する。だが、幽斎には古今伝授があった…。

本書について

安部龍太郎
関ヶ原連判状
新潮文庫 計約九〇〇頁

目次

第一章 細川幽斎
第二章 石田三成
第三章 智仁親王
第四章 加賀百万石
第五章 牛首一族
第六章 前田利長
第七章 幽斎帰国
第八章 細川ガラシア
第九章 大坂屋敷炎上
第十章 田辺城籠城
第十一章 激戦初日
第十二章 古今伝授
第十三章 第三の道
第十四章 前田家、西へ
第十五章 和議の使者
第十六章 停戦三日
第十七章 朝廷工作
第十八章 緊急陣定
第十九章 勅命和議
第二十章 天下無事の義
第二十一章 岐阜城陥落
第二十二章 秘策
第二十三章 信長供養
第二十四章 東への使者
第二十五章 密謀の行方

登場人物

細川幽斎
麝香…幽斎の妻
夢丸
石堂多門…牛首一族
北村甚太郎
長岡右京太夫(明智左馬助)
細川忠興
細川玉子(ガラシア)
千丸…忠興の四男
稲富伊賀守
孫兵衛
前田利長
芳春院…利長の母
横山大膳…前田家家老
高畠石見守定吉
千代
高山兵部
一条仙太郎
太田但馬守
前田能登守利政…利長の弟
千世姫…前田利家の第七女
石田三成
蒲生源兵衛郷舎
島左近勝猛
小月次郎春光
小月太郎宗光…春光の兄
伊助
速太
大谷刑部少輔吉継
八条宮智仁親王…後陽成天皇の弟
大石甚助…宮家の家司
中院通勝(也足軒)
近衛前久(龍山)
西洞院時慶
広橋大納言兼勝
榊一心斎…牛首一族の主